伴百悦

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2012.06.27
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http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon2/100.html

>戊辰の役では萱野右兵衛隊の組頭として越後口に出陣、各地に転戦して偉功

をたてたが、長岡城陥落の後は会津に帰り籠城戦で活躍した。

其れは嘘です。

 其れが本当ならば、家老に昇進して、総督に抜擢される筈です。

エンフィールド銃やスナイドル銃を標準装備していない會津軍が、大活躍できる筈が無いのです。

 

>伴百悦らには民政局の扱い方がおおいに不満であった。なかでも旧越前藩士であ
る監察兼断獄(行政官兼裁判官)久保村文四郎の残酷な仕打ちに怒り、同志の中原
成業・一柳訪・井深元治らと計り、彼の帰国する機会に越後街道の束松(たばねま

つ)峠に待ち伏せてこれを斬殺してしまった。

 

つまり、會津松平家の主従には、長州に対する恨みが無かったのです。

 現在も「長州を許せない」云々と遣っているのは、侍の子孫ではなくて、

白虎隊を観光資源にする、在日の露天商どもです。

彼らと関係が深い市長ほど、「萩市とは和解できない」

幕末・明治の当事者でもない現代人が、「和解云々」と言っている事自体がインチキなのです。