司馬遼「峠」ブーム再び 来年映画公開 新潟では新たに石碑も 7/27(土) 10:01配信 毎日新聞

司馬遼「峠」ブーム再び 来年映画公開 新潟では新たに石碑も 7/27(土) 10:01配信 毎日新聞

信濃川に架かる越の大橋・西詰(新潟県小千谷市高梨町)にある、司馬遼太郎の「峠」文学碑に、建立の経過などを詳説した説明板が新たに設置された。「峠」は幕末の長岡藩家老、河井継之助を一躍全国区に押し上げた歴史小説。6月16日には、司馬が取材で訪ねた慈眼寺(同市平成2)に建立された石碑の除幕式があるなど、役所広司仲代達矢らが出演する映画「峠 最後のサムライ」の公開を来年に控え、再び継之助ブームが始まろうとしている。

 「武士の世の終焉(しゅうえん)にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。

 『峠』という表題は、そのことを、小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた」

 これは、越の大橋の碑に刻まれた司馬の文章の一部だが、説明板には、碑石建立の経緯が詳述されている。

 それによると、国道17号にバイパスとして完工する「越の大橋」西詰に、記念碑建立の打診が建設省(当時)からあったのは、1993年9月下旬のことだった。小千谷市が碑文を依頼すると、司馬は「いいお話です。お引き受け致します。謝礼も必要ありません」と快諾したという。

 小千谷市とのやり取りの中で「碑石は小さく、威圧感をなくすため横長に、榎峠の山容に似た自然石で、仰仰しからざる碑を」といった指示をしつつ、司馬からは「碑ができようができまいが、小生はかまいません」といった、いたわりの一言も添えられていた。

 同年11月17日、全長519メートルの越の大橋は予定通り開通式を迎え、同時に「『峠』文学碑」も完工した。

 碑のある場所からは、榎峠古戦場(長岡市史跡)とその背後の朝日山古戦場(小千谷市史跡)が望める。

 また、戊辰戦争の転機となった小千谷談判の会場として知られる慈眼寺に、新たにできた石碑には、司馬が芳名録に残した文面が刻まれた。

 「河井継之助の風

姿を知らんがため

慈眼寺に来る

山内の蟬声

を聞きつつ

 昭和四十年八月

 司馬遼太郎

 船岡芳英住職の祖母が、司馬に頼んで書いてもらったという。著名な小説家とは知らなかったが、ふらっとやって来た「ロマンスグレーの紳士」に、何かを感じたのかもしれない。【若狭毅】

 ◇「峠」

 1966年11月~68年5月、約1年半にわたり毎日新聞に連載された。司馬遼太郎新聞小説としては、「竜馬がゆく」が完成してからほぼ半年後に書き始められた作品。「峠」が終わるとほとんど同時に、次の「坂の上の雲」が始まっている。


河井 繼之助 傳を司馬遼太郎剽窃して、『峠』を執筆した。
河井 繼之助 傳と司馬遼太郎『峠』の間抜けなところは、小千谷談判をメインの扱いとして居る。
戊辰戦争の前年の『会津 酒屋会議』が本当のメインなのだ。
会津 酒屋会議』を主導した會津
会津 酒屋会議』を主導した會津を補佐した長岡
戊辰戦争が勃発しても、會津と長岡の関係は、崩れなかった。
長岡の獨立特行を岩村精一郎が認めず、
長岡の獨立特行を越後口總督の一ノ瀬 要人が認めて、
長岡の總督の河井 繼之助と越後口總督の一ノ瀬 要人が同盟した。
北越の蒼龍と會津の虎が同盟したのである。