一番槍の不良少年

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2012.07.03
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http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/05/bakumatu03.html

>町野主水の末弟、久吉が敵陣へ突撃したのは、午前九時ごろのようだ。満年齢では十六歳の少年だった。若者四人が後に続いた。兄である町野奉行の静止を聞かず、血気にはやって飛び出したのである。

 町野久吉は町野主水のコネを使って白虎隊に入隊せずに、

町野主水の従者という形で従軍したのだろう。

>この時、肉を食べた一人に、永井村(現在の群馬県新治村)の猟師がいた。彼が昭和三年四月に死去する直前、病床で「久吉が来る、おそろしい」と絶叫したという話に続いて、引用部分が記載されている。猟師は、久吉を銃撃した一人でもあった。

 この役こそ、西田敏行に演じて欲しい(大和田爆笑)

>「蒲生家伝来の大身槍」は久吉の死後、北陸道征討軍を指揮していた山県有朋の手に渡ったと言われている。三十年ほど後になって、家宝の槍を町野家に返却してはどうか、と仲介する人があった。これに対して、元気だった町野主水は、こう答えた。
 「戦場で失った物を、武士たる者が畳の上でもらうわけにはいかぬ」
 相手は絶句したに違いない。
 「頑固な会津武士には、ありそうな話」ではなく、この発言が事実だからこそ、町野主水は「頑固な会津武士の典型」と言われるのだ。

しかし、山縣有朋は戦場で「蒲生家伝来の大身槍」を分捕ったのでは無い。

 戦場で山縣有朋が町野久吉に一騎討ちで勝ったのならば、正論であろう。

 「蒲生家伝来の大身槍」を畳の上で貰わない町野主水は白痴だったのだ。