益満休之助

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2012.07.04
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http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/05/bakumatu02.html

>慶応三年三月、江戸攻撃を目指して東海道を進軍して来た東征軍の中を、堂々と通りぬけ、駿府にいた西郷隆盛に、「江戸開城を話し合おう」という勝海舟の手紙を届けたのが山岡鉄舟だった。この時、道案内を務めたのは、前年暮れの三田・薩摩屋敷焼き討ちで捕らえられていた薩摩藩士、益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)である。しかし江戸を出た山岡は、多摩川(当時、河口付近は六郷川と言った)を越えたところで、東征軍に遭遇した時、「朝敵徳川慶喜(よしのぶ)家来、山岡鉄太郎、大総督府へまかりとおる」と、大声で言い放ったという豪胆な人だったから、たぶん、駿府までは一人でも行くことができただろう(ただし、西郷に会うには、益満の顔が必要だった)。そのおかげで、西郷と勝の直接会談が実現した。

創造主と共に歩む5次元の存在に尋ねたところ、

 「朝敵徳川慶喜(よしのぶ)家来、山岡鉄太郎、大総督府へまかりとおる」と、大声で言い放ったというのは、山岡鉄舟が捏造した話だそうです。

「島津家の臣、益満休之助、馬上のまま、通り申す」と益満休之助が言ったそうです。

 益満休之助が山岡鉄舟を先導して居たのです。