山縣有朋の嘘

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2012.07.17
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http://blog.livedoor.jp/hokutatu/archives/5952589.html

山県有朋は、すぐさま全軍退却を命じるとともに、西園寺公望のいるこの本営に来て、錦の御旗とともに退却するよう言いました。

西園寺公望が錦の御旗を置いて退却する筈が無いので、山縣有朋の作り話です。

>藩境まで逃げた山県有朋は、深追いしてこない長岡藩兵に「今、相手も苦しい状況。攻撃するなら早い方がいい。」と言い、すぐさま体制を立て直し、4日後には再び長岡城を占拠しました。

本当に山縣有朋が其の発言をしたのなら、2日以内に長岡城を攻撃する筈です。

>大正11年まで生き、「国軍の父」と呼ばれた山県有朋は、晩年、「最も苦しかった戦闘は、河井継之助と知略を尽くして戦った北越戦争であった。」と語っています。

山縣有朋は軍人としては無能で、平押戦法しか出来ませんでした。

長岡城一番破れの時の立案と実行の功労者は、三好軍太郎です。

山縣有朋は軍政家としては、有能でした。