朝日山の戦い ~雷神隊隊長 立見鑑三郎~

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2012.07.22
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立見鑑三郎は、戊辰戦争について後にこう述べています。

「桑名隊が常に少数ながら善戦健闘、多くの勝利を得たにもかかわらず、後退せざるを得なかったのは、いつも友軍の敗報を聞き、敵に後略を断たれる事を恐れたためであった。」

実際に、立見鑑三郎が率いた戦いは各地で勝利を収めていました。

しかし、" 東洋一の用兵家 " も、さすがに時代の流れを変えることはできませんでした・・・。

http://blog.livedoor.jp/hokutatu/archives/10672847.html  

ただし、そこまですんなりと事が運んだわけではない。江戸藩邸では抗戦派と恭順派が激しく対立した。公用人の森弥一左衛門ら五十人の藩士は、上野の彰義隊に参加した。森は彰義隊壊滅後、仙台で榎本艦隊に身を投じ、土方歳三が榎本軍幹部となった後は、「箱館新選組」隊長になる。また、後に日露戦争で活躍し、陸軍大将にまで昇進する立見(たつみ)鑑三郎(尚文)らは、旧幕府軍とともに関東各地で戦った。
 そんな中で、三月八日、松平定敬藩士百人余を連れ、品川沖でロシア船コリヤ号に乗り組んだ。一行が箱館を経由して新潟に上陸、陸路で柏崎に到着したのは三月末日だった。四月四日には江戸家老吉村権左衛門ら重臣二十人も、柏崎へやって来た。それからおよそ一か月、柏崎でも、また抗戦派と恭順派の論争が展開された。
 その末に、吉村家老の暗殺事件が起きた。

藩主松平定敬が桑名に戻れなくなったのは、「藩」として降伏してしまっただけでなく、勤皇派の家臣たちに見捨てられたためでもあると言える。
 桑名では、藩論が降伏に決まったとは言え、あくまで戦うという藩士たちもいた。彼らは脱藩して江戸に下り、最終的には柏崎を目指した。だが、柏崎でも抗戦派と恭順派の対立が起きた。強く恭順を主張したのは、江戸家老吉村権左衛門らである。もともと柏崎陣屋にいた藩士たちには、恭順派が多かった。そこに指導者吉村家老を迎えたから、恭順論が大勢を占めることになった。

大鳥圭介旧幕府軍と関東地方を転戦していた立見鑑三郎ら八十人の桑名藩士に、柏崎の状況が伝えられたのは、吉村家老暗殺の翌日、閏四月四日のことだ。『柏崎市史』によると、立見らは「会津藩碇(いかり)村に至った」ところだったという。「碇村」とは、現在の「五十里(いかり)湖」で、日光から会津へ向かう途中(栃木県藤原町、三月二十日に日光市と合併)だから、柏崎から一日で行ける距離ではない。
 知らせたのは、桑名藩軍事奉行の山脇十左衛門である。暗殺犯山脇隼太郎の父親だ。「たまたま」「軍事奉行山脇十左衛門が会津に発した柏崎情勢に接し」と『柏崎市史』には記されているから、偶然、その使者の口から聞いたのかもしれないが、立見ら抗戦派は、柏崎が切迫した状態であることを知った。息子が家老暗殺を企てていることを、山脇奉行が知っていたかどうかは不明だが、親子とも、状況の打開を策していたことは間違いない。
 恭順派が主導権を握っていた柏崎陣屋では、すぐに吉村家老暗殺犯の探索が始まった。藩主定敬も、家老暗殺を不問に付すわけにもいかなかっただろう。その状況を覆したのは立見らの来着である。まず、立見ら少数が柏崎に急行し、残る全員が柏崎に到着したのは閏四月十一日だ。当然、陣屋では大論争となったが、すでに戦火をくぐり抜けて来た立見らの「実績」に、恭順派は押し切られ、以後、桑名藩柏崎陣屋の人々は、一致して同盟軍の一翼として戦い続けることになる。
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/06/bakumatu02.html

立見鑑三郎は局地戦でしか勝てないくせに後退を友軍の敗戦のせいにする卑怯者だ。

桑名城を攻撃して恭順派を下して、松平定敬を迎え入れて籠城して戦い抜くのが真の" 東洋一の用兵家 "でしょう。

松平定敬の方は、とりあえず深川の菩提所、霊巌寺(東京都江東区白河町)に謹慎した。京から近い桑名藩が、藩主定敬に相談せず新政府に降伏、開城してしまったために、領地へ帰れなくなったのだ。いつまでも江戸にいるわけにもいかないので、定敬は、飛び地領の越後柏崎(新潟県柏崎市)へ行くことにした。

己の保身の為に徳川慶喜松平定敬を江戸から追放したのです。