​<奥羽の義 戊辰150年>(30)最新兵器装備 戦術も巧み 2018年12月16日 日曜日

2019.12.11
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<奥羽の義 戊辰150年>(30)最新兵器装備 戦術も巧み 2018年12月16日 日曜日

◎第5部 列藩同盟崩壊/破竹の庄内藩

 1868(慶応4)年旧暦7月、秋田藩に向けて進軍した庄内藩は破竹の勢いで新政府軍に勝利を重ねた。北から攻めた盛岡藩を含めると、奥羽越列藩同盟軍は秋田藩領の3分の2を制圧したとされる。

 新政府軍に連戦連敗だった同盟軍の中で、庄内藩の強さは際立つ。致道博物館(鶴岡市学芸員の菅原義勝さん(32)は「最新鋭の銃火器を装備していたことが大きい」と話す。装弾が早く射程も長いスナイドル銃などを用い、同様に新式銃を使う新政府軍に引けを取らなかった。奥羽諸藩の多くが旧式の火縄銃で苦戦を強いられたのとは対照的だ。

 資金は領内の豪商や豪農が出した。中でも「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と俗謡になるほど栄華を誇った本間家の援助は大きかった。鶴岡市史によると、本間家は戦費として9万両を献金。現在の貨幣価値では数十億円に上るとみられる。北前船交易で財を成した他の豪商らも資金を融通し、海外から武器を買う源泉となった。

 本間家が1813(文化10)年に築造した別邸「清遠閣」は現在、本間美術館として公開され、往時の栄華を知ることができる。

 庄内藩は秋田戦線で雄物川を渡河する奇襲で新政府軍を破るなど、戦術も巧みだった。特に中老酒井玄蕃(げんば)率いる2番大隊は新政府軍に「鬼玄蕃」と恐れられた。北斗七星を配した同隊の軍旗「破軍星旗」を見るだけで敵兵が逃げたとの逸話も残る。

 戊辰戦争で負け知らずと言われる同藩だが、菅原さんは「実際は局面によっては撤退したし、新政府軍の態勢が整った終盤は苦戦している」と指摘する。薩摩藩の増援部隊と戦った1番大隊長の松平甚三郎は「出兵以来これほどの強敵は初めて」(仙台戊辰史)と驚いている。

 庄内藩は秋田城下のすぐ南まで攻め上がったが、列藩同盟そのものは窮地にあり、仙台藩が9月15日、会津藩は同22日に降伏。庄内藩もそれ以上戦いを続けることができず、同26日、奥羽諸藩で最後に降伏した。
(文・酒井原雄平 写真・鹿野智裕)