歴史家の稲川明雄氏が死去

2019.12.14
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 河井継之助記念館館長で歴史家の稲川明雄(いながわ・あきお)氏が12日午後9時34分、虚血性心不全のため長岡市内の病院で死去した。75歳だった。長岡市出身。通夜は14日午後6時から、葬儀は15日午後1時30分から、いずれも長岡市西神田町のセレモニーホール平安で行う。喪主は長男の憲(さとし)氏。
 
 1963年に長岡商業高を卒業し、長岡市役所に就職。73年から市立図書館互尊文庫に勤務。市史編さん室長や市立中央図書館長などを歴任した。2006年12月に河井継之助記念館長就任。山本五十六記念館展示企画委員なども務めた。
 
 北越戊辰戦争の東軍(奥羽越列藩同盟軍)戦死者名簿作成に挑み、東軍の戦死者数が西軍(新政府軍)を上回ることを明らかにした。歴史に埋もれがちな敗者側の視点を大事にし、「長岡城燃ゆ」「北越戊辰戦争史料集」「長岡藩」「米百俵小林虎三郎の決断」「山本五十六のことば」など多くの著書を残した。
 
 小説「峠」コーナーが継之助記念館に設けられた縁で、稲川氏と親しかった司馬遼太郎記念館上村洋行館長(76)は「長岡のことを本当に思っておられた方だった。誠実で優しい方で、すっかり『稲川ファン』になった。ともに記念館を運営する立場で、稲川さんの存在は励みになっていた。悲しい」と悼んだ。
 
 連合艦隊司令長官山本五十六の孫源太郎氏(58)は「祖父(五十六)に関し江戸時代の祖先なども丹念に調べた上で『人間五十六』の角度で光を当ててくださった。見識が深く、温かい方だった」と語った。
 
 継之助記念館の設立に関わった森民夫・元長岡市長は「まちを焦土にしたとして『アンチ継之助』の市民も少なくなかった中、稲川さんの人柄とバランス感覚によって多くの方々から愛される記念館に育ててもらった。全国に幅広い人脈を持ち、市の歴史文化交流に尽くされた」と惜しんだ。
 
2019/12/13 21:11

https://wassatv.blog.fc2.com/blog-entry-385.html

>継之助記念館の設立に関わった森民夫・元長岡市長は「まちを焦土にしたとして『アンチ継之助』の市民も少なくなかった中、稲川さんの人柄とバランス感覚によって多くの方々から愛される記念館に育ててもらった。<

我の記憶では真相は真逆
「まちを焦土にしたとして『アンチ継之助』の郷土史家が稲川明雄氏
河井 繼之助の長岡城奪還『焦土作戦』なんてのを捏造して、本を出版した。

河井 繼之助が焼かせたのは、一度目の長岡落城の際に隅櫓の御三階
長岡城奪還の際に郊外の農家を何軒
我に尋ねたところ、
牧野家に反抗的な地主の屋敷を五軒焼かせたそうです。
一度目の長岡落城で城下の七割が西軍に焼かれて、
西軍が再度の長岡城奪取で城下の一割を焼いて、
合計、長岡城下の八割を西軍が焦土にしたのです。