Facebookを投稿できなくされた我 NGT48の悪口を書いたから?(大和田爆笑)

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2020.01.04
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June 8, 2018 · 
河井継之助の子ども》
 河井継之助に子どもがいたという話がある。河井が群馬県桐生のとある家に男の子を預け、養育を依頼したという。しかし、継之助に実子がいなかったことは明らかである。もし、継之助が妻のスガ以外の女性との間に子どもをもうけたとしたら、他家に預けるだろうか。武士は、家を守ることが第一、乳幼児の死亡率が今とは比べものにならなく高かった江戸時代は、男の子はたとえ正妻の子でなくとも大切に育てられた。例えば、井伊直弼は、彦根藩の12男だったが、兄たちが次々に亡くなり、棚ぼたで藩主の座が巡ってきた。もちろん、庶子である。
 明治16年、家名復興を許された河井家では森源三の三男茂樹を養子に迎え、河井の姪(姉千代子の娘)と結婚させ、河井家が再興された。現在の河井家(東京都)である。もし、河井に実子がいたら、養子を迎える必要はなく、スガの産んだ子でなくとも後継ぎとして大事に育てたはずである。
 このことから考えると、継之助が預けた子は実子ではない。では誰の子か、それは藩主忠訓の正室つね姫(前藩主忠恭の家付き娘で、美貌だが、わがままだったという)が駕籠かきの松蔵と不倫した結果、生まれた子だと思う。長岡藩12代藩主牧野忠訓は養子で、幕末の動乱期で多忙をきわめ、なおかつ病弱だったため、孤閨をかこっていたつね姫が、長身で男前の松蔵を誘惑して、関係をもち、不義の子を産んだ。不倫がばれ、打ち首になるはずだった松蔵を助けたのが河井継之助だったという。この話は以前に聞いたことがあったが、真実かどうかはわからない。
 「長岡郷土史」に、「上州桐生に河井継之助の遺児の墓を訪ねて」という一文を見つけた。石川徳男氏が書いている。それによると、昭和53年に桐生市の小林正蔵という人が手紙をよこし、桐生の郷土史家が「伝聞和田正秀」と題して、河井継之助の遺児と称する、河井利根之助なる人物のことを書いている。河井利根之助が継之助の実子かどうか、調べたいので、協力をお願いしたいという内容だったそうである。以下は石川徳男氏の文の要約である。
私は昭和55年、桐生に足を運び、河井利根之助秋詮(後の和田正秀)の墓のある寺(文昌寺)を訪ねた。和田正秀は、初め河井利根之助と呼んだ。慶応2年8月16日生まれ、河井家の従僕萩原利八は戊辰戦争で河井家を離れる時、利根之助を連れて生家(桐生)に帰り、わが子勇八の養子として養育させ、名を和田正秀と改めさせた。正秀は利発な子で、16歳の時、アメリカ人宣教師に従って渡米し、帰国後は、帝国大学文科部の教師になった。フェノロサの通訳兼秘書になり、日本各地を回り、日本及び東洋美術の鑑識眼を養った。刀剣鑑定に優れていた。正秀は継之助の生涯を深く心中に留めていた。官途に就くことを嫌い、日本各地を遊歴して楽しんだ。一時は国会議員にという話もあった。昭和4年満州からの帰途、九州で亡くなった。以上が「伝聞和田正秀」の大要である。(中略)
 正秀の墓がある文昌寺は桐生市の最北端にある。曹洞宗にして正式名称は端雲山文昌寺といわれ、寺には有名な地蔵尊がまつられており、この地方きっての大寺院といわれるだけあって、素晴らしいたたずまいをみせていた。正秀の墓は高さ1m60㎝、横60センチの自然石にして、墓名は「正真院秀光活道居士」と刻まれ、裏に和田正秀、初め河井利根之助秋詮、後に本阿弥光賀を号す。越後長岡の人、故ありて家僕萩原利八に伴われ、幼少の折に桐生に来たり、利八の子和田勇八に養われて桐生に落つき、和田姓を名のる。長ずるにおよび、父河井継之助の因縁により、官途就くを欲せず、刀剣鑑定の技をもって世に立つ。即ち本阿弥光賀の称号を以て終始す。晩年、満州に渡り、日露の戦蹟を弔い巡回中、病を得て帰途、昭和四年十一月十八日、熊本県人吉市に於いて没す。享年六十四歳。家族妻信子 長男正彦 長女威子 次男正英
昭和五年 弥生月建碑 と刻まれていた。
〇萩原利八の実在性
 北越戊辰戦争の際、河井継之助の家僕という萩原利八なるものが、継之助の遺児といわれる利根之助(当時三歳)を、ひそかに自己の故郷桐生に連れて帰り、名を利根之助から正秀に改めさせ、己の子で和田家に養子に入った勇七に養育をゆだねた。河井継之助の従僕として、名の出ている者は松蔵、寅太(外山脩造)、大崎彦助くらいのもので、継之助関係のいずれの書や資料にも萩原利八なる人物は出てこない。桐生市の和田家の除籍謄本には、安政五年1月2日、桐生新町亡萩原利八二男勇七、和田与八方へ養子入籍と記されていることから、萩原利八なる人物は実在していたものと思われる。しかし、利八は安政五年に死亡していることから、戊辰戦争の折に長岡から幼児を連れ帰ったという説はかなり疑問に思われる。
以下、次回

June 17, 2018 · 
〇和田正秀は真実河井継之助の子か
和田正秀は慶応二年(1866年)、和田勇七とその妻ムメの長男として生まれた。和田家は明治の初期から、広瀬屋という屋号で、織物業を営んでいた。正秀は16歳の時、渡米し、明治21年父勇七の死によって帰国した。家督を相続するとともに、東京に出て、神田に居住し、信子と結婚。明治32年、桐生に戻り、本阿弥光賀と名乗り、刀剣鑑定を業とした。正秀については茂木光夫氏(正秀の弟の孫)は「私が父(正秀の甥)から聞いた話では、正秀という人は非常に頭がよく、成人してからは『俺はお前たちとはできが違う』といって、弟たちや親類とも交際しなかったそうですが、なんでも越後長岡から戊辰戦争の時に、下久方に来て、戸籍上は勇七の長男として届け出をしてあるが、事実は武士の子あったと、豪語していたいうことです」と語っておられるが、これに反して正秀の母ムメ(正秀はあくまでも養母と言っていたという)は、生前「正秀は私が生んだ子に違いないのに、本人は私を養母と言っている」と、淋しく知人に語っていたと言われているので、正秀なる人物を、継之助の遺児と見ることは、この際、かなりの疑問があるといわざるを得ない。と石川徳男氏は結論付けている。河井利根之助(和田正秀)なる人物が河井継之助の遺児でないことは、母ムメの証言から間違いない。おそらく、和田正秀は大言壮語の人物で、河井継之助群馬県の農家に子を預けたという話を聞きつけ、自ら河井の遺児を名乗り、なりすましたのだと思う。こういう類の人物はままいる。昔、有栖川宮の末裔と名乗る人物が、石田純一などの有名人を招いて盛大な結婚式をあげたが、真っ赤なニセモノだというニュースがあったが、その息子が私が務めていた某中学校にいたことを今回の件で思い出した。また、天一坊や戦後、南朝の系統を継ぐ熊沢天皇なる人物がマスコミを賑わしていた。いつの時代も誇大妄想な人物はいる。
 また、石川徳男氏がつね姫と松蔵の間に生まれた不義の子を河井継之助群馬県の農家に預けた言う話を知っていたら、このことを書いたはず。しかし、この文にはそのことが一行も触れられていない。この文が書かれた昭和55年頃にはこの話は流布されていなかったということになる。すると、河井継之助が牧野家の醜聞になりかねない不義の子を群馬県の農家に預けた言う話はずっと後になって広まったということが想像できる。実際、不義の子がいたのかどうかを含め、真実は今のところわからない。桐生の文昌寺(写真)には一度行って見たいと思う。

>このことから考えると、継之助が預けた子は実子ではない。では誰の子か、それは藩主忠訓の正室つね姫(前藩主忠恭の家付き娘で、美貌だが、わがままだったという)が駕籠かきの松蔵と不倫した結果、生まれた子だと思う。<

稲川明雄氏が著書に書いて有ります。
稲川明雄氏が言い出しっぺですよ。

河井継之助の従僕として、名の出ている者は松蔵、寅太(外山脩造)、大崎彦助くらいのもので、継之助関係のいずれの書や資料にも萩原利八なる人物は出てこない。<

寅太(外山脩造)、大崎彦助は元々は河井 繼之助の弟子です。
従軍して河井 繼之助の傍に居る為に従僕と成ったのでしょう。

松蔵は庄屋の推薦で殿様の駕籠舁きと成り、働きが認められて御庭番と成った。
御庭番は忍びじゃなくて、庭の手入れをする男

河井家の中間や下男に姓は無いでしょう。
松蔵は明治時代に役場で戸籍を作る時に、
「木河」にしたかったが、漢字を書けなかったので、
役場職員が「木川」にしてしまった(大和田爆笑)