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2020.02.02
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>「戊辰戦争とガトリング砲」でも指摘しているように、2門入手したはずのガトリング砲のうち長岡城攻防戦で使われたように見えるのは1門だけであり、さらにこの後になると全く姿を見せなくなってしまうことも確かだ。成果はあったが、多大なコストに見合わないレベルでしかなかったのは間違いなさそうだ。<

「2門入手した」と言う史料や証言は、河井 繼之助を「ガトリング砲2門を相場の何倍の値段で購入した愚か者」だと思わせる後世の謀略、嘘

ガトリング砲 衝鋒隊

ガトリング砲 衝鋒隊

ガトリング家老 記事をクリップするクリップ追加
2013/6/18(火) 午後 10:15 その他 練習用
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 大河ドラマではナレーションだけで終わってしまった長岡の話、に関連して少し気になったこと。長岡藩が手に入れたガトリング砲は5月19日の第1次長岡城攻防戦で使用されたという。その証拠となる史料がこちら"http://www10.plala.or.jp/yageki/taiho.html"に紹介されているもので、ソースは今井信郎の「北国戦争概略衝鋒隊之記」だという。
 ところが色々と見てみると、微妙に違う史料が出てくるのだ。ガトリング砲については長岡在住の著者が書いた「戊辰戦争とガトリング砲」なる本があり("http://blog.goo.ne.jp/kidouhan/e/73ce4ed2faf9351407ad2744680ddc04"参照)、たまたまこの本を見たところ、そのp46に紹介されている「衝鋒隊戦史」なる史料の内容が、上に紹介されている「北国戦争概略衝鋒隊之記」と少しずれている。記の方では神田口で防戦した部隊の指揮官として古屋佐久左衛門、河井継之助の名を挙げているが、戦史には他に「会藩の一瀬要人」がいるし、また彼らの手兵は記が「四、五十人」としているのに対し戦史は「五十余名」となっている。なぜだろう。
 こちら"http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/264963/143276/20339889"によると戦史の方は「今井信郎原著、中田蕭村加筆編修」となっているので、今井の「北国戦争概略衝鋒隊之記」に中田が手を加えたものかもしれない。だとしたら基本的には戦史ではなく記の方が信頼できると思うべきなんだろう。さらに実を言うと、付録として戦史が掲載されている「幕末実戦史」"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900018"を見る限り、編者の名前は「中田蕭村」ではなく「田中蕭村」(p277)だったりする。
 さらに面倒なことに、明治42年に出版された「河井継之助伝」(今泉鐸次郎著)には「衝鋒隊戦争略記」なる文献も出てくる。同書"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1880306"のp394-395には「『衝鋒隊戦争略記』に云く、『河井継之助、古屋作左衛門、老少小者などを指揮し、大手門前土手を楯とし、河井自らカツトリンクゴン速射砲(三百六十発元込めにて六穴の大砲なり)を頻に発し、敵数人を打倒す』」とある。場所が神田口ではなく大手門になってしまっている。
 「戊辰戦争とガトリング砲」に記載されている長岡市街図(p48)を見ても分かるのだが、神田口は城の北側、大手は西側にある。つまりガトリング砲が使われた場所が文献によって違っているのだ。で、こまったことにこの「衝鋒隊戦争略記」の著者も今井となっている("http://www.geocities.jp/r12_44104_b/dataezo.htm"など参照)。記と戦史が違うのは戦史を編集した田中の影響があるためと解釈できるが、記と略記の違いはどう考えればいいのだろうか。実によく分からない。
 「戊辰戦争とガトリング砲」の著者は、この戦いにおいて河井はガトリング砲を引っ張って「城内から神田口に出て[兵学所のあった]中島方面に行き、その後大手口に後退したのではなかろうか」(p47)と推測している。それを裏付けるのが19日の戦いについて記した長谷川隊の報告だ。「河井継之助伝」に書かれているその報告の中に「又退て兵学所に至り、散卒を収め、勉励防御す。(隊の負傷者十九人)時に河井総督奇環砲を引来る」(p395)という文章があるので、これを参照したうえでの推測だろう。
 実際、長谷川は河井に向かって「上田町或は渡里町一条の道路に備えんには」と提案し、河井は「了承し去」ったという。長岡の上田町や渡里町は大手の西側にあり、中島からそちらへ向かったとすればその後で大手口で戦ったとしてもそれほど違和感はない。もっとも実際にガトリング砲をぶっ放したのが神田口、大手口のどちらかだったのか、それとも両方だったのか、そのあたりはやはり不明だ。
 
 長谷川は中島でのガトリング砲使用を推奨しない理由として「西軍散布進撃す、此器此場に益なし」と述べている。当時の長岡の町並みがどうなっていたかは詳細に分からないが、兵学所のあった中島は城下から少し離れ、柿川を挟んだ対岸にあり、もしかしたら建物があまり建て込んでいなかったのかもしれない。こちら"http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/naga001.htm"によれば兵学所は長岡藩兵が集結する場所としても使われており、広い場所が確保できない市街地にはなかったと考えてもあまり問題はないだろう。そうであれば長谷川は「見晴らしのいい中島より、市街地である上田町や渡里町の道路上の方がガトリング砲を有効に活用できる」という狙いで進言した可能性がある。
 「戊辰戦争とガトリング砲」では「砲身を左右に振ることができないので、散開した敵に対しては効果が少ないことが予想される」(p53)と指摘している。加えてこの本では、長岡市の長谷川家文書にある「長岡海内一之大筒は動す事不成故、玉同之所計行故不用立、避易しぐ志りたと噂す」という文章も引用しており、ガトリング砲が意外に使い勝手が悪かったことをうかがわせている。狭い道路に据え付けて使えば射界が狭くても効果は期待できるが、そうでなければ運用は難しかったのかもしれない。
 実際の運用でガトリング砲がどの程度の効果を上げたかも不明だ。今井の「北国戦争概略衝鋒隊之記」には「薩州兵ヲ射殪ス」とあるようだが人数は書いていない。戦史には「群る敵兵に多大の損害を与えた」(幕末実戦史 p324)と書かれているが、一方戦記には「敵数人」としかなく大きなダメージを与えたようには見えない。ただ「戊辰戦争とガトリング砲」でも指摘しているように、2門入手したはずのガトリング砲のうち長岡城攻防戦で使われたように見えるのは1門だけであり、さらにこの後になると全く姿を見せなくなってしまうことも確かだ。成果はあったが、多大なコストに見合わないレベルでしかなかったのは間違いなさそうだ。