>菜の花忌シンポジウム土方歳三と河井継之助-『燃えよ剣』『峠』【まとめ①】​

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2020.04.13
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菜の花忌シンポジウムの模様をEテレで放送していましたので、記事にまとめてみました。 菜の花忌シンポジウム土方歳三と河井継之助-『燃えよ剣』『峠』【まとめ①】

菜の花忌シンポジウム土方歳三と河井継之助-『燃えよ剣』『峠』【まとめ①】

>損得だけで考えちゃうと、早々と薩長についちゃえばいいわけですよ。

損得だけで考えちゃうと、早々とアメリカについちゃえばいいわけですよ。
明治政府が行った地租改正と徴兵制度は、愚策です。
日本国民は大損失を被った。
地租改正と徴兵制度で強く成った日本軍は、
台湾→清→露と対外戦争を進行させた。
第二次世界大戦大日本帝国は、連合国に降伏して、占領統治された。

河井が生きた幕末動乱の時代。長岡藩を率いた河井は近代兵器を完備武装中立を目指し新政府軍に対抗しました。

武装中立は歴史の改竄です。
河井 繼之助はモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張したのです。

変わりましたね。私はその頃は子供でしたけど、河井継之助派と反河井継之助派というのがはっきりあったみたいですね。わりと長岡の人達は歴史好きが多くて、どっちだってゆうのが大きかった。ただそれは継之助派でも反継之助派でもきっぱりしてないんですよね。複雑なんですよ。他の地域の人達から河井継之助はダメだねと言われるとすごく反発するし、でも自分たち同士の話だとあいつはダメだねとか、結局は愛されてはいるんですね。

戊辰戦争120周年の2年後くらいに長岡市で、
河井 繼之助 関連の催しに行った。
会場で
河井 繼之助のファンらしき中年男性二人組が立って居て、
小柄な方の
中年男性が「河井さんが遣りたかった事は云々」と喋りだしたので我が近付くと、
我の接近に気付いた
小柄な方の中年男性が喋る事を止めた。
「こいつ、たこ八郎みたいな奴だな」と我は思った(大和田爆笑)
自分の人生を懸けて迄、本気で
河井 繼之助を語る奴は長岡には一匹も居ないと分かった出来事であった。
我の河井 繼之助に対する思いは、相楽左之助相楽総三に対する思いなんて
生易しいものでは無い。
客観的には
河井 繼之助をネタに新説を唱えて、インターネットで著名人と成る、我の売名行為
吉田松陰プチャーチンを暗殺しようとした」説を全世界で初めて唱えた我
吉田松陰プチャーチンを暗殺しようとした」説を神戸のサンテレビが番組プログラムで剽窃しやがった。
これは我の大いなる自信と成り、大いなる第一歩であった。

>蛾の強い人ですね・・・とんでもない人ですね。あんまり好きではなかったですね。(会場から笑い)

こんな人にはなりたくない。

結果的に、自分の考え、我の強さを出してしまう。藩を潰してしまったわけですよね。

まあ、僕やったら薩長が攻めてきたらハイハイゆうて城を明け渡しますけど、

こういうどんでもない人が頭に来た時に、越後長岡の人達には不幸だったのではないかと、率直に言って思いました。

星野(星野知子)さんがどう思っているか知りませんが(会場から笑い)

僕は愛媛県の人間ですけど、まあこんな人が家老でおったらとんでもない困りもんですね。しか思いませんね。<

長岡の歴史を知らない愚者ですね。
長岡の牧野家の家臣団は、北越戦争に参戦する直前は、
家臣団の三分の二くらいが、新政府に対する抗戦派でした。
依って、河井 繼之助は強引に無理な事を行って居ないのです。
河井 繼之助が藩を潰したと主張するならば、
「藩を潰した責任は、藩主と家臣団の三分の二くらいの新政府に対する抗戦派にも有る。」と主張しないフェアで無い愚者
黒川博行が思い込んで居る河井 繼之助とは、実は盛岡藩の楢山佐渡なのです。
盛岡の南部家の家臣団の三分の二くらいが、新政府に恭順派でした。
其れを強引に覆して、秋田戦争に参戦した。

>他の藩の家老たちもみんな実は、(武装中立するとか継之助は)なんてことを言いだすんだとか、どうして?って思いだすんですけど、いつのまにか説得されるというか、河井継之助のやりたいほうにいくしかないって時代もそうだったし、それだけ継之助はすごく頭もいいし、弁もたつし、先を見ているから、狭い中で何百年も生きていた藩の人達にとっては、従うしかなかった。

違う人が出て来て議論で戦える人が出ていれば違ったかもしれないのに、長岡藩には(継之助と)対等に戦える相手がいなかったのかなって気はしますけどね。

会津藩 酒屋会議

会津藩 酒屋会議の時から、
會津と長岡は強く深く結び付いて居ました。
歴史をちゃんと学んでくださいね。