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2020.08.15
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https://twitter.com/anegawa1570/status/1280142450967801858
楢山様とは、どうにも自由に言葉を交わせぬのがもどかしい。もう少しあの窮屈さが取れないとな
 
新渡戸稲造の祖父・伝の楢山佐渡の評価。
長州藩士、桂小五郎も1、2度佐渡氏と酒を酌み交わし、その評価が残る。
この逸話は盛岡藩士(?)出典なのだが、桂さん側の記録はまだ見たことがない考えている顔
午後11:11 · 2020年7月6日·Twitter Web App
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E4%BD%90%E6%B8%A1#%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E8%B6%8A%E5%88%97%E8%97%A9%E5%90%8C%E7%9B%9F
>慶応4年(1868年)、京都御所警備のために鳥羽・伏見の戦いが終わった直後の京都に赴任する。京都滞在中、西郷隆盛岩倉具視桂小五郎ら新政府側の人々と接触する。新政府側の意見のばらつきを感じ、また、西郷と接触した際には下級武士と車座になり上下の差別無く食事をとる様子を見て、新政府の世になった際の自分の立場に危機感を覚える[1]。このため、新政府と対抗する意志を固め奥羽越列藩同盟への加盟を決意したとも言われる。
 
これに異を唱えたのが、御用人の目時隆之進と目付役の中嶋源蔵だった。彼らは何度か佐渡と膝を交えて討論をしたが、ついにその意見が入れられないと悟ると、目時は長州藩邸へ走った。また同盟に断固反対の立場を取った中嶋を、佐渡らは奸臣と呼んだ。中嶋は自身の死をもって佐渡を諌めようと切腹したが、その行動も空しく、佐渡は新政府に対抗する道を選んだ。<

楢山佐渡よりも、中嶋源蔵が格好良いじゃねえか。

佐渡は6月、海路帰国の途につき仙台に上陸する。大部分の随行者は、そのまま盛岡に直行させ自らは仙台藩家老の但木土佐と会見した。「奥羽同盟の一角すでに崩れたが、我々は一蓮托生…」と互いの決意を確かめ合って帰途についたと伝えられている。元々盛岡藩仙台藩は仲が良いわけではなく、この行為を佐渡の三閉伊一揆での「借り」を返す行為だと見なす者もいる。<

世良修蔵が斬首されたので、奥羽列藩同盟の楢山佐渡が捕縛されず、
6月、海路帰国の途に着ける筈が無いのです。
楢山佐渡は新政府と盛岡藩の二重スパイなのではないか?