与茂七火事 たたりか 城下3度大火 新発田藩ちょっと怖~い話 その弐

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2020.08.19
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 新潟県新発田市では大きな火事があると、「与茂七のたたりだ!」と、昔の人々はよく口にしていたらしい。
 
 与茂七とは大竹与茂七。中之島の名主だった。現在の中之島長岡市だが、当時は新発田藩領。その中之島は1704(宝永元)年、大雨に見舞われる。堤防補強の杭(くい)が足りず、与茂七は上役の庄屋や藩の林を伐採。水害から村を守った。
 
 この処置に庄屋は反発、勝手に藩林を伐採したと奉行所に告発するも、与茂七は無罪。両者の確執は続き、与茂七は農民を助けるため庄屋から金を借りた際のトラブルで、またも奉行所の裁きとなる。
 
 裁判は長引き、藩内のゴタゴタは幕府の藩お取りつぶしの口実になりかねないと案じた家老は、与茂七に罪を認めさせようとした。歯を一本一本抜いて拷問のように責めたが、与茂七は断固拒否し、1713(正徳3)年、打ち首獄門の刑に。38歳の若さだった。
 
 「七代七生までたたるであろうぞ」と叫び、死んでいったともいわれている。
 
 その言葉が実現したかのように、与茂七の七回忌にあたる1719(享保4)年。与茂七が罪人とされた裁きのあった同じ日に、新発田城下で大火が発生。出火元の寺は与茂七の遺体を葬ってあり、鬼火が原因で燃えた寺の扉が家老屋敷まで飛んでいったなど、与茂七の怨霊がなせる業とされた。
 
 藩がなくなっても、1895(明治28)年と1935(昭和10)年に第2、第3の「与茂七火事」が起こる。2回目は与茂七が処刑された命日に発生。家老の子孫の家に飛び火、庄屋が城下の定宿としていた宿屋が焼けたなどといわれる。3回目は、与茂七が刑場にひかれて行く際に、わらじを与えた者の家だけが、周囲の家が被災した中で焼けなかったという。
 
 3回目の大火は、処刑から222年も後のことだ。与茂七の怨念は、それほど強かったのだろうか。
 
 与茂七のたたりは火事だけではない。庄屋が怨霊に悩まされ死亡。その後、家老も病死したほか、当時の藩主・溝口重元、直治が2代続けて若くして亡くなった。直治の子どもたちも次々と早世した。
 
 そのため、藩への功績のあった者を祭る諏訪神社境内にある五十志霊神社に与茂七を祭り慰霊。神社には、いつからか打ち首になった与茂七を想像させる首のない地蔵が祭られ、五十志霊爾(れいじ)とされている。
 
 そして今では、与茂七は正義を貫き農民を救った義民とされ、地元・中之島に顯彰会があるほか、新発田でも「与茂七を偲ぶ会」が、五十志霊神社で毎年命日の6月2日に宵宮、翌3日には鎮火祭を営んでいる。
 
 「義民と怨霊信仰は裏表の関係」と話す、偲ぶ会の小竹敏夫会長(72)は、「伝承を古文書で裏付ける作業をしている」とし、「今の与茂七物語は明治時代に書かれた『義民与茂七実伝』という本から始まった」と解説。伝承の中には、(江戸時代の)古文書で確かめられない話もあり脚色された部分もあるという。
 
 五十志霊神社に関しても諸説あるが、与茂七と裁いた家老が一緒に祭られており、「これも不可思議なことです」と小竹さん。生前の恨みが和らぎ、あの世で仲良くやっていれば、新発田市民も安心して暮らせるだろう。
 
 【参考文献】小竹敏夫編集・発行「新発田藩正徳三年伝説の中に義民の真実を求めて」、「与茂七ガイド義民大竹与茂七」「漫画大竹与茂七」(新発田与茂七を偲ぶ会)、「新発田郷土誌第十号」(新発田市史編纂委員会)

> 与茂七とは大竹与茂七。中之島の名主だった。現在の中之島長岡市だが、当時は新発田藩領。その中之島は1704(宝永元)年、大雨に見舞われる。堤防補強の杭(くい)が足りず、与茂七は上役の庄屋や藩の林を伐採。水害から村を守った。
 
 この処置に庄屋は反発、勝手に藩林を伐採したと奉行所に告発するも、与茂七は無罪。両者の確執は続き、与茂七は農民を助けるため庄屋から金を借りた際のトラブルで、またも奉行所の裁きとなる。<

> 与茂七とは大竹与茂七。中之島の名主だった。
>与茂七は上役の庄屋や藩の林を伐採。水害から村を守った。

矛盾して居ます。
教養が無い。
名字帯刀が許されたのは、大庄

>その中之島は1704(宝永元)年、大雨に見舞われる。堤防補強の杭(くい)が足りず、与茂七は上役の庄屋や藩の林を伐採。水害から村を守った。

我に尋ねたところ、
大雨に見舞われてから堤防補強の杭を打ち込んでも、
水害から村を守れないそうです。

>両者の確執は続き、与茂七は農民を助けるため庄屋から金を借りた際のトラブルで、またも奉行所の裁きとなる。

何から農民を助けるのか?
庄屋から何故、金を借りたのか?
具体的に書いて居ない。

> 裁判は長引き、藩内のゴタゴタは幕府の藩お取りつぶしの口実になりかねないと案じた家老は、与茂七に罪を認めさせようとした。

完全に創作です。
家老に出番は無いです。
郡奉行の管轄です。

>歯を一本一本抜いて拷問のように責めたが、与茂七は断固拒否し、1713(正徳3)年、打ち首獄門の刑に。38歳の若さだった。

金子借用手形が証拠です。
自白する、しないは関係ない。
打ち首獄門の刑に処したのだから、
歯を一本一本抜いて拷問のように責めたは、創作した話です。

>3回目は、与茂七が刑場にひかれて行く際に、わらじを与えた者の家だけが、周囲の家が被災した中で焼けなかったという。

わらじを与え様にも、役人が突っぱねます。
更に役人に文句を言ったら、捕縛されます。