参州牛久保の壁書 常在戰場>吉田大八

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2020.08.22
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>要職を歴任する中で、江戸では、安積良斎(あさかごんさい)等に学び藩校の改革を図り、天童では、藩の財政難対策に取り組んだ。当時、天童藩の財政は困難を極め、下級の藩士ほど生活は苦しく、貧窮にあえいでいた。大八はその救済策の一つとして、藩士が将棋駒を制作することを取り入れた。武士が手内職を営むことについては反対もあったが、「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」とし、将棋駒作りを広く推奨した。天童が将棋駒の産地になった由来といわれている。<

>「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」

我が昔に読んだ本には、
川島億次郎は第二次長州征伐に出征する一員に選ばれ、
出征を祝いに来た知人と将棋を指した。
其の事を知った長岡藩上層部は、「出征するのに将棋で遊ぶとは、怪しからん」と、
川島億次郎に謹慎を命じた。
此の出来事は、検索してもヒットしない。
川島億次郎は長岡三傑・三島億二郎として、祭り上げられる様に成ったからだろう。
牧野忠恭は第二次長州征伐に反対して、
大公儀から謹慎させられた。
後に大公儀から長岡藩は第二次長州征伐に出征を命じられた。
長岡軍は大坂城に待機させられた。

参州牛久保の壁書 常在戰場>吉田大八

>1868年(慶応4年)2月、戊辰戦争において、天童藩織田信学(のぶみち)は奥羽鎮撫使先導の大役を命ぜられ、中老吉田大八は先導名代となる。官軍であった天童藩は、庄内藩と攻防の末焼き討ちに遭い、鎮撫軍は苦戦。その後、奥羽名藩で結成された奥羽列藩同盟から、大八の身柄引き渡しを要求され、大八は米沢藩に自ら捕らえられる。
6月18日、天童小路の観月庵で切腹して果てる。享年37歳。天童佛向寺に葬られる。(公式パンフレットより)<

二萬石の天童藩に奥羽鎮撫使先導を命じた新政府はクルクルパー
十萬石以上の藩に命じるのが、当たり前だ。
天童藩には無理ゲーと言うか、無理戦
荘内軍に討たれて、奥羽列藩同盟に参加させられて、
新政府を裏切った形と成ったので、
天童藩は領地から、二千石を削減された。
無理戦の奥羽鎮撫使先導を命じた新政府は、天童藩に五千石を加増するのが妥当だった。

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吉田大八=柄本明磯田道史(大和田爆笑)