>実際、外征した庄内藩部隊と対峙して、勝てた新政府軍部隊はない。

https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202009280002/

2020.09.28
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https://twitter.com/MioKurosaki123/status/1310134459312685058
実際、外征した庄内藩部隊と対峙して、勝てた新政府軍部隊はない。佐賀藩兵は三番大隊の攻撃で多大な損害をだして敗退した。岩倉具視のお声がかりで参戦した長崎振遠隊も、二番大隊と二度渡って戦ったが、撃退された。薩摩藩兵は大曲において、一番大隊を窮地に追い詰めたものの、夜襲を受けて大損害。
午後5:29 · 2020年9月27日·Twitter for Android

>実際、外征した庄内藩部隊と対峙して、勝てた新政府軍部隊はない。

じゃあ、何で荘内軍は本領迄、撤退したの?(大和田爆笑)

岩倉具視のお声がかりで参戦した長崎振遠隊も、二番大隊と二度渡って戦ったが、撃退された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E9%81%A0%E9%9A%8A#%E6%8C%AF%E9%81%A0%E9%9A%8A%E3%81%AE%E9%81%A0%E5%BE%81
慶応4年(1868年)、島原藩大村藩平戸藩佐賀藩福岡藩秋月藩の諸藩兵が奥羽に出征する際、振遠隊の面々はその軍に参加することを沢総督に自ら願い出た[3]。

この矛盾にハイマンナン(大和田爆笑)
要するに、振遠隊は弱兵

佐賀藩兵は三番大隊の攻撃で多大な損害をだして敗退した。

其の後の戦闘では、
佐賀武雄軍のアームストロング砲に三番大隊は弱体化されて、
射程距離まで詰められて、スペンサー銃7連発で制圧された。
敗退したのは三番大隊