河井継之助記念館 比べ

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2021.03.10
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長岡市の負け(大和田爆笑)

只見町の河井継之助記念館に館長は居ない。
長岡市河井継之助記念館の初代館長は病気を理由に半年くらいで辞任だっけ?
二代目館長がアンチ河井継之助の稲川明雄氏
信じられない人選
長岡商業卒の館長が、学芸員の資格を持つ小学校の校長上がりの職員にパワハラ民事訴訟された。
稲川明雄氏の無罪が確定
稲川明雄氏が亡くなって大分、時間が経過したが、
三代目館長を出せない。
怖くて三代目館長を出せないのだろう。
長岡市河井継之助記念館の一次史料の展示物は少ない。
一次史料の写しは二次史料
学芸員は不要で、古文書クラブの爺さん、婆さんをボランティア職員にしろ(大和田爆笑)
河井継之助の写真は上半身の物
其れを長岡市河井継之助記念館が写真を捏造、合成して下半身を付けてブーツを履かせた写真パネル
河井継之助銅像にブーツを履かせて居る。
河井継之助坂本龍馬と並ぶ人物だと思わせる魂胆だ。
河井継之助の関連本を読んだ記憶では、
河井継之助村田蔵六が戦争を指揮する格好が似て居る。
高下駄を履いて、普段着の着物姿、陣羽織は無し。
隊長以上の者が陣羽織を羽織って居るので、
陣羽織を羽織っても目立たないので、河井継之助は羽織らなかったそうだ。
矢張り、新町の寺の伝承、河井継之助が被弾した話は捏造されたものなのです。
当時の人間は足の指の挟む力が強くて、高下駄で泥濘を平気で歩けた。
物凄い泥濘は紺色の足袋か鷹匠が履く足袋を履いて、草鞋を履く。
河井継之助銅像に望遠鏡を持たせて居る。
戊辰戦争当時は望遠鏡は既に時代遅れで、『會津士魂』を読めば分かりますが、
會津軍の将校は双眼鏡を使って居ました。
長岡市河井継之助記念館の1865年型のガトリング砲の複製
沈没した開陽丸から引き揚げられたガトリング砲の弾薬が1865年型だから、
河井継之助が撃ったガトリング砲を1865年型とした。
短絡思考で説得力が無い。
只見町の河井継之助記念館の1868年型のガトリング砲の複製
北越戦争の戦場から発見された1868年型のガトリング砲の弾丸を根拠として、
河井継之助が撃ったガトリング砲を1868年型とした。
ただし、1868年型のガトリング砲と同じ口径のアメリカ製の小銃が存在したそうだ。
1997年のゴールデンウイークだったと思うが、
只見町の河井継之助記念館に行った。
大正時代に山本五十六と會津若松の人たちが河井継之助を顕彰する新聞記事かの史料を観て、
涙がボロボロ出て、涙を流して居る顔を他人に見られたく無いので、
史料を観る振りをして、史料を展示して居るガラスケースの上に涙をボロボロ落として居たが、
入館者の女性に気付かれて、両親か舅姑に「涙を流して居たよ!」
小学生くらいの子を二人連れて居たな。
河井継之助のファンなら、只見町の河井継之助記念館で涙を流す。
長岡市河井継之助記念館じゃ、涙が流れ無いよな(松田聖子爆笑)
帰りの只見線ディーゼル列車で車掌が切符を切りに来たので、
只見町の河井継之助記念館のパンフレットを座席横に置いた。
切符を切った銀縁メガネの青年車掌が「良い旅を」と声を俺に掛けた。
「彼も河井継之助のファンなんだな」と俺は思った。