司馬遼太郎は同姓同名の松本鼎をごっちゃにして居たのではないか?
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@quasar20121
返信先:
@UgIdo20ze3w9f5o
さん,
@HrXi38Srx6rQZ7h
さん
我に尋ねたところ、
河井 繼之助は影打ちを扱う商人から、
気に入った刀を二本、脇差を一本購入したそうです。
二番目に気に入って居た刀を明治時代に河井家から松本鼎が入手したそうです。
刀と脇差は大正時代に河井家が河井 繼之助の遺品を伏せて手放したそうです。
午前8:33 · 2021年3月26日·Twitter Web App
司馬遼太郎『峠』を二度読んだ我だが、
長州出身の松本鼎が日露戦争で河井継之助の刀を差して、自慢した。 と読んだ記憶が有る。
司馬遼太郎は同姓同名の松本鼎をごっちゃにして居たのではないか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%BC%8E_(%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)
松本鼎 (陸軍軍人)
司馬遼太郎『峠』を二度読んだ我だが、
長州出身の松本鼎が日露戦争で河井継之助の刀を差して、自慢した。 と読んだ記憶が有る。
司馬遼太郎は同姓同名の松本鼎をごっちゃにして居たのではないか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%BC%8E_(%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)
松本鼎 (陸軍軍人)
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目次
1 経歴
2 栄典
3 脚注
4 参考文献
経歴
島根県出身。1878年(明治11年)12月、陸軍士官学校(旧2期)を卒業し、翌年2月、砲兵少尉任官。1901年(明治34年)2月、野戦砲兵第12連隊長に就任。1902年(明治35年)11月、砲兵大佐に昇進した。
1903年(明治36年)5月、陸軍野戦砲兵射撃学校長となり、1904年(明治37年)2月、第1軍砲兵部長に発令され日露戦争に出征。1906年(明治39年)7月、野戦砲兵第10連隊長に異動し、1907年(明治40年)11月、陸軍少将に進級し野戦砲兵第3旅団長となった。
1912年(明治45年)7月、野戦砲兵第1旅団長に発令され、1913年(大正2年)7月、陸軍中将に進み東京湾要塞司令官に就任した。1914年(大正3年)5月に待命となり、同年8月、予備役に編入された。1919年4月1日、後備役となる[1]。
栄典
位階
勲章等
1895年(明治28年)
11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[5]
脚注
^ 『官報』第2008号、大正8年4月16日。
^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
参考文献
外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%BC%8E_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%BC%8E_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)
松本鼎 (政治家)
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松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年4月15日)[1] - 1907年(明治40年)10月20日[2])は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・政治家。和歌山県知事、衆議院議員、貴族院議員、元老院議官、男爵。通称・鼎造。
目次
1 経歴
2 栄典
3 親族
4 脚注
5 参考文献
経歴
周防国出身。生家は農家で仏門に入る。松下村塾に入り吉田松陰に学んだ。還俗し長州藩士となり、禁門の変に従軍し、敗戦後、御楯隊に加わった。第二次長州征伐、戊辰戦争に従軍。明治元年12月(1869年1 - 2月)、箱館府監事に就任。
1890年6月12日、元老院議官に就任し、同年10月20日、元老院が廃止され非職となる[3]。同年7月、第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第三区から出馬して当選。衆議院議員を一期務めた。1892年5月3日、貴族院勅選議員に任じられ[4]死去するまで在任。死去に当り、その功により男爵を叙爵した。
栄典
位階
勲章等
親族
長男 松本春造(男爵)[10]
孫 松本鼎一(貴族院男爵議員、春造長男)[10]
脚注
[脚注の使い方]
^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻では10月22日。
^ a b c 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』461-465頁。
^ 『官報』第2652号、明治25年5月4日。
^ 『官報』第150号「叙任」1883年12月26日。
^ 『官報』第2094号「叙任及辞令」1890年6月24日。
^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
^ 『官報』第1476号「叙任及辞令」1888年6月2日。
^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、651頁。
参考文献
歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
内閣「松本鼎特旨叙位ノ件」明治40年。アジア歴史資料センター レファレンスコード: A10110266600
日本の爵位
先代:
叙爵 男爵
松本(鼎)家初代
1907年 次代:
松本春造
[隠す]
表話編歴
県令
津田正臣 参事→権令北島秀朝 権令→県令神山郡廉 権令→県令松本鼎
知事
松本鼎石井忠亮千田貞暁沖守固久保田貫一野村政明小倉久椿蓁一郎清棲家教伊沢多喜男川上親晴川村竹治鹿子木小五郎池松時和小原新三佐竹義文長谷川久一清水徳太郎宮脇梅吉野手耐友部泉蔵蔵原敏捷唐沢俊樹清水良策藤岡長和吉永時次清水重夫今松治郎広瀬永造小林千秋小池卯一郎金井正夫川上和吉高橋良麿
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