白い秋田犬「わさお」のブームで、長岡人は忠犬しろを秋田犬だと思い込む様に成ったのだろう。

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2021.04.21
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忠犬“しろ”のものがたり
 中興(ちゅうこう)の名君として知られている三代藩主牧野忠辰公は、中沢村の庄屋善兵衛から大きくて勇敢な白い犬(秋田犬と思われる)を譲り受けた。“しろ”と名づけられたこの賢い犬は、参勤交代で江戸に赴(つ)くときも新しい主人の籠(かご)を追った。
殿様はことのほか喜び“しろ”をたいそう可愛がった。
 
 ところがあるとき、江戸の牧野家屋敷の前を尾張候の大きな唐犬が通りかかり、“しろ”に襲い掛かった。それまでじっと耐えていた“しろ”は、果敢に反撃し唐犬を追い払った。
ときは貞享年間(1684~1687)のこと、生類憐みの令が発布された前後の四代綱吉の世のこと、犬の喧嘩(けんか)といっても、相手は将軍家の親戚の尾張候の犬である。
殿様は“しろ”に、「こんなことをするようでは、江戸の屋敷においておくわけにはゆかぬ」ときつくしかった。“しろ”は大好きな殿様に国元に帰るように命じられたと思い、参勤交代で通った道をとぼとぼと長岡に向った。
 
 よく朝、殿様は“しろ”がいないことに気づいた。問われた家臣は、「しかられて長岡に戻ったのではないか」と申し上げた。
殿様は「ふびんなことをした。もし長岡に戻っていたらいたわってやれ」と家臣に命じた。
 
 江戸から約76里(300km)、長岡にたどり着いた“しろ”は、元の飼い主である中沢村の善兵衛の家に行った。しかし善兵衛は、「殿様に差し上げたのだから、殿様の許しがなければ家には入れられないのだよ」と城に戻るよう諭(さと)した。
“しろ”は善兵衛を何度も振り返り城の方向に向った。しかし“しろ”は城には戻らず、中沢村から少し離れた丘で、数日間悲しく鳴いていた。
 
 まもなく江戸から“しろ”が長岡に戻ってないかという問い合わせが城に届いた。家臣は城内をくまなく探し、善兵衛の家にもやってきた。
江戸でのいきさつを聞いた善兵衛は、数日前に鳴き声のした方向を探すと、小高い丘の上ですでに息たえていた。
善兵衛ははるばる江戸から戻ってきた“しろ”を哀れに思い、亡くなった丘に塚を築き手厚く葬ったという。悠久山に向う途中にある「白狗(しろいぬ)の塚」がその塚といわれている。
 
 それから約100年後の天明元年(1781)、殿様の忠辰公は蒼柴神社に祀(まつ)られることになり、この塚とは目と鼻の先に移ってきた。きょうも“しろ”は大好きな殿様と悠久山を駆け回っているのだろうか。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/siroinu.htm

戊辰120周年の長岡郷土史料館でのイベントで読んだ。
秋田犬とは書いて居なかったぞ。
白い犬で俺は紀州犬を思い浮かべた。
尾張候の唐犬では無くて、洋犬と書いて居たな。
果敢に反撃し唐犬を追い払った。では無くて、嚙み殺したと書いて居たな。

庄屋が血統書付きみたいな秋田犬を買える筈が無いじゃん。
白い秋田犬「わさお」のブームで、長岡人は忠犬しろを秋田犬だと思い込む様に成ったのだろう。

我に尋ねたところ、
忠犬しろは紀州犬の血が入った雑種犬だそうです。
紀州犬は飼いたいが、秋田犬は顔が不細工なので嫌だ。
尾張候の犬を噛み殺した忠犬しろは紀州犬の血が入った雑種犬

尾張 vs. 紀州

26歳の時の俺は霊能者?では無かったが、ある意味では天才でしたね(大和田爆笑)

https://cse.google.com/cse?ie=UTF-8&q=%E5%B0%BE%E5%BC%B5+site%3Aplaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012&cx=002636997843861491696%3Av3cnak5qsac&siteurl=plaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012%2F&ref=&ss=
尾張