山本 帯刀を見殺しにした、佐川官兵衛

 山本 帯刀を見殺しにした、佐川官兵衛 | アセンション詐欺に遭いましたか? - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

 

2021.07.15
XML

  

カテゴリ:カテゴリ未分類
http://park2.wakwak.com/~fivesprings/books/niigata/tatewaki.html
7月29日長岡城が再落城すると、8月1日から7日にかけて、傷ついた藩士や、年寄りや幼児を連れた家族が続々と八十里越を通って会津へ落ちのびた。
長岡軍大隊長の山本帯刀は殿軍を務め、自ら精鋭の3小隊を率いて鞍掛峠に陣を置き、8月11日から26日まで敵の侵攻を防いだ。
8月16日、河井継之助が只見で死亡し、8月23日新政府軍が会津城下に突入した後は、長岡藩主牧野忠訓が向かった米沢藩には向かわず、山本帯刀隊精鋭40数名を率いて会津領内を転戦した。(※藩主忠訓は米沢藩に入国を拒否され仙台藩に向かう)
 
9月5日には、会津城下西部で「材木町の戦い」(※地図 ※ストリートビュー)が行われる。長岡城の攻防戦を戦い抜いた「鬼の官兵衛」の異名をとる、佐川官兵衛の指揮下で会津軍は遂にこの戦いで大勝利をおさめ、城への補給路を確保し、新政府軍は敗退した。会津藩が城下で戦った戦闘で唯一の勝利であったが、山本帯刀隊は佐川の指揮下で戦い勝利に貢献している。
帯刀は、材木町での勝利ののち、会津城籠城のための糧道を確保するため、会津藩兵と連携して新政府軍との戦闘をつづけた。
9月8日未明、帯刀は阿賀川河畔の飯寺村(※地図 ※ストリートビュー)で宇都宮藩兵を会津藩兵と挟み撃ちにする作戦を行ったが、会津藩兵が敗走し、それを知らない帯刀隊は宇都宮藩兵に包囲される形となった。宇都宮藩戸田三男隊の襲撃を受けると、濃霧の中、味方の誤射と思い込み、十分な反撃をしないうちに9人が戦死、帯刀ら30数人が生捕りにされた。他藩との意思疎通がうまくいかない中で発生した悲劇であった。
生け捕りにされた藩士たちは、即刻斬首された。帯刀と渡辺豹吉は分離され、越後で交戦し手痛い負けを喫し、その指導力を知っていた薩摩藩の越後口軍監淵辺直右衛門を含む3人の軍監から、その人物を惜しみ、助命のため降伏を促された。帯刀は「藩主の命で戦場に望んだが、降伏せよとは命じられていない」と述べ、それに応じず、翌9日、阿賀川の河原で藩士の渡辺豹吉(ひょうきち)ともに斬首された。渡辺豹吉は越後から主人帯刀と行動を共にしてきた家僕で、帯刀の死を見届け、遺骸を埋めてから死を賜ったという。
帯刀は、死に臨み持っていた軍資金200両を宇都宮藩家老戸田三男に差し出して、長岡藩兵の追善供養に役に立てて欲しいと伝えたという。
山本帯刀・河井継之助ともに戦場で亡くなったが、両家は藩主の命を救う形で北越戦争の首謀者とされ、ともに家名断絶となった。