新発田の内高は約40万石で米澤如きよりも、遥かに上(大和田爆笑)

https://www.youtube.com/watch?v=-JLHzDkf3KE&lc=Ugw_0PK-RaQBCy011_R4AaABAg
注目のコメント

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21 時間前
新潟市在住です。生家の近くに戊辰公園というところがあります。小さい頃は気づきませんでしたが、米沢藩の色部長門が亡くなった場所らしいです。金鉢山公園という場所は薩摩軍の陣地らしいです。
 
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AIZUチャンネル
 
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9 時間前
戊辰の面影はたくさんの所にあるんですね。戊辰公園、金鉢山公園へも行ってみたくなりました😊
教えてくださりありがとうございます。
 
 
 
諸橋嘉久
諸橋嘉久
4 分前
北越戦争 第四章
慶応四(1868)年七月二十四日~七月二十九日
 
北越戦争時の新潟の状況
 元々新潟は幕府直轄領で、新潟奉行所が統治していました。しかし新潟奉行だった白石千別は大政奉還を知って動揺し江戸に向って逃走した為、慶応四年に入ってからの新潟奉行所は組頭の田中廉太郎と松長長三郎等が運営していました。
 しかし徳川慶喜が新政府軍に無条件降伏すると、建前上は新潟は新政府の領地となったのですが、当時の新政府には新潟にまで手を伸ばすような余力は無く、うやむやのまま新潟奉行所の統治が続いていました。しかし軍事力を有しない奉行所の統治も越後に戦乱が近付くと無力となり、四月一日には会津藩の指示により衝鋒隊が、七日には同じく会津藩の指示により水戸脱走軍が新潟に進駐します。しかし進駐と言っても荒くれ者の衝鋒隊や、故郷を失い理性を失っている水戸脱走軍が大人しくしている筈もなく、すぐに略奪と暴虐の限りを尽くします。しかし上記の通り軍事力を有しない奉行所に、衝鋒隊や水戸脱走軍等の会津勢を追い払う力は無く、新潟の人々はただただ会津勢の恐怖に怯える事になります(新潟市史通史編3 P11~P14)。
 こうして会津勢の暴虐に苦しんだ奉行所は、新潟の町民を救う為に長岡藩に救いを求める事とします。これを受け河井は単騎新潟に駆けつけて、衝鋒隊や水戸脱走軍を説得して新潟から退去させます。この河井の活躍で平穏を取り戻した新潟ですが、奉行所の田中や松長は軍事力を有しない自分達では新潟の治安は保てないと判断し、また外国船が来航ししきりに開港を要求したたため(前年幕府が諸外国に開港を約束し、またこの年新政府もうやむや気味ですが新潟開港を認めていたため)、どこか信頼できる大藩に新潟の統治権を託す事を決意します。しかし奉行所が新潟の統治権を託したのは、衝鋒隊や水戸脱走軍を送り出した会津藩でも無ければ河井の居る長岡藩でもなく、越後に向けて派遣軍を進発させたばかりの米沢藩でした。この奉行所の田中や松長が米沢藩に新潟を託した理由としては、やはり米沢藩上杉家が越後の人々に慕われていたのが大きかったと思われます(新潟市史通史編3 P15)。
 
 そんな米沢藩に新潟の統治権を託したいと思う新潟奉行所米沢藩接触したのは、話は遡る五月の事です。五月十三日に米沢を出陣した米沢藩総督の色部長門ですが、その色部が新津に滞陣している二十一日に初めて色部と奉行所の役人の増田勝八郎が接触します。ただ開港問題など何かと問題のある新潟を受け取るのを色部も簡単には承認せず、しばらく米沢サイドと奉行所サイドの交渉は続きます。この間の交渉がどのようなものだったかと言うのは、色部自身の日記にも一切書かれていないので判りませんが、恐らく新潟港の武器補給地としての重要さを考えて新潟奉行所の申し入れを了承したらしく、二十八日夕方に色部と色部の家臣達は米沢藩兵本隊と別れ、船で信濃川を降って新潟に向います。そして翌日の二十九日に色部は奉行所の田中と改めて会談を行い、この場で新潟の統治権奉行所から米沢藩に移ったと思われます。
 
 かくして新潟の統治権を得た米沢藩ですが、あくまで米沢藩が代表と言う形で独占支配したのではなく、同盟軍の支配と言うことでかつての奉行所を同盟の会議所とします。また色部の到着と前後して米沢藩兵は旧幕臣の安田幹雄や馬場八郎、また会津藩軍事顧問の肩書きを持つヘンリー・スネル等の指導を受けて、新潟の民衆を徴発し新潟防衛の為の砲台の設営を開始します。この砲台は全部で5つないし4つが設営されたらしく、一番砲台が洲崎番所・二番砲台が本明寺裏・三番砲台が泉性寺裏・四番砲台が勝楽寺裏(スネルの宿泊地)・五番砲台が前新潟大学裏辺り?に築かれます(五番砲台には無かったとの説もあり)。これらの砲台は六月上旬辺りには完成したらしく、砲台完成後は米沢藩兵が前述の安田やスネル達から指導を受けて調練を行ないます。後日この砲台からの砲撃が新政府軍軍艦の摂津に命中弾を与えるなど、この米沢藩兵の調練は一定の成果を挙げました。
 こうして新潟の統治を始めた色部ですが、色部自身は町内の光林寺に宿泊し、そこから同盟会議所に通い会津藩家老梶原平馬・仙台家老芦名靭負・庄内藩家老石原倉右衛門らと会議して、武器の輸入及び蚕種紙の輸出の手配、また諸外国への同盟の主張を伝える文章の作成等を行います。もっとも前述の人間の中新潟に常駐していたのは色部だけで、実質色部が同盟軍の重要な後方拠点である新潟を運営していました。
 
 この色部等の努力により、新潟港は同盟軍の後方補給地として稼動し、西洋化の遅れている同盟軍に多数の小銃と弾丸を供給します。中でも米沢藩兵は七月十九日には前装ミニエー銃二千挺と元込銃(シャールプ銃?)一千挺、更にその各小銃の弾丸計150万発を入手する事に成功します。ただこの直後に新潟攻防戦が行なわれた為、この際購入した小銃は殆ど米沢藩兵の手に渡らなかったと思います。逆にエドワード・スネル(ヘンリーの弟)と面識がある河井継之助の長岡藩は五月下旬にスペンサー銃41挺を含む多くの小銃・弾丸を入手して、これらは後の長岡藩兵の戦いに大きく貢献しています。
 ところでスネル達が同盟軍に持ちかけた商談としては他に、海軍力に劣る同盟軍に当時江戸湾に在り、後に新政府軍海軍の主力軍艦として活躍した甲鉄(ストーンウォール・ジャクソン)の購入を持ちかけます。この計画は旧幕府が既に40万ドルを支払っているので、残金10万ドルを払って入手すると言うものでしたが、長岡藩がこの案に反対するなど足並みが揃わず結局実現しませんでした。また他にも在サイゴン外人部隊を呼び寄せると言う案もスネル側から出されましたが、余りに巨額を要求されたので実現しませんでした。
 とにかくこのように同盟軍の重要な後方拠点として稼動していた新潟ですが、その新潟目指して新政府軍の山田顕義率いる艦隊が迫っていたのです・・・。
 
 
 
諸橋嘉久
諸橋嘉久
2 分前
>どこか信頼できる大藩に新潟の統治権を託す事を決意します。しかし奉行所が新潟の統治権を託したのは、衝鋒隊や水戸脱走軍を送り出した会津藩でも無ければ河井の居る長岡藩でもなく、越後に向けて派遣軍を進発させたばかりの米沢藩でした。<
 
上記の事を、我に俺が尋ねたところ、
嘘だそうです。
奉行所が新潟の統治権を託したのは、表高10万石、内高は約40万石の新発田藩だそうです。
其れを聞き付けた米澤が新発田藩に圧力を掛けて、新潟の統治権を辞退させたそうです。
 
11代藩主・溝口直溥の代になって、10万石への高直しを幕府に申請し、認められた。これには、家格が上がるというメリットの一方と、財政窮迫の折りの高直しはかえって過剰な加役を加えられるのではデメリットを心配する声も上がり、藩内で論争が起こった。
大政奉還後、朝廷は列侯会議を開くため、10万石以上の諸大名に上洛を命じた。これに応じた藩は多くなかったが、新発田藩は幼君直正の名代として江戸詰家老窪田平兵衛を派遣する。
鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜追討令が出、久我通久から新発田藩には京都の警護のために兵を出すようお達しがくる。上京兵力は、江戸から物頭久米三左衛門隊二百名、新発田から物頭佐治藤右衛門隊二百名の計四百名。総隊長は江戸詰家老速水八弥。
 
1月10日、京都で発表された朝敵の区分は一等徳川慶喜、二等松平容保会津藩)、松平定敬桑名藩)、となっていた。それならばと会津は2月1日、酒屋村の陣屋(新潟市酒屋町)に再び越後諸藩を集めて「酒屋会談」を行なう。中央情勢との関連でこの会談を危険と感じて、高田藩など欠席した藩も多かった。しかし、新発田藩は、自らの情報提供で第一回が開催されたのだから、二回目を欠席するのは自ら反会津を宣言するようなもの、ということで出席する。代表に七里敬吉郎、井東八之丞が送り込まれる。会談は無事終わるが、宴の最中、新潟奉行所から、新発田藩の銃兵隊数百人が京都へ向かったという知らせが入る。七里、井東は知らぬ存ぜぬを通すが、藩へ帰って調査し返答することを求められる。その後七里がどういった弁明をしたかは不明だが、会津藩は「疑念晴れ候」とした。
 
是れを領民蜂起の第一となす。けだし藩士ひそかに、領民を使嗾(しそう、そそのかす)せしならん
— 新発田藩戊辰始末
我が領民四方より馳せ集まりその数、数百千人。我が進軍を阻塞し、歎願して曰く、進軍するなかれ、官軍と戦うなかれ(是れを領民蜂起の第二とす)
— 新発田藩戊辰始末
新発田を守る隊長は佐治孫兵衛様でございましたが『もし敵を防ぎきれない時は鐘を鳴らすから、その時は新発田が負けそうだと思って、即刻立ち退け』という御布令がまわされていしたから、どうぞ孫兵衛様の鐘が鳴るなら、昼に鳴るようにと、祈っていました。家内中毎日びくびくして、今日も鳴らなかった、などといっておりました。ところが大雨の降った晩、恐れておりました孫兵衛様の鐘が、突然鳴りました。ああ、とうとう鳴った。このどしゃ降りの最中にと、泣き顔で道具の片付けを始め、めぼしいものを背負って、雨の中を近くの農家に逃れました
— 『新発田市史』所収「郷土余話」諸橋たま子さんの談話
 
 
新発田が代々、勤王だったは、嘘
新発田が代々、尊王だった。
 
上杉謙信を憎悪した揚北衆の子孫が新発田領の百姓だ。
溝口氏が新発田揚北衆の子孫を少しは召し抱えただろう。
 
色部長門は勇猛果敢に戦い玉砕したのでは無くて、
逃げ遅れて敵兵にピストルを撃ち、弾切れで死中に活を求めて斬り込んで、小銃弾に斃れた。
色部長門の首を部下が斬って持ち、逃げる途中で首を茄子畑に埋めた。
関屋村の庄屋斉藤金兵衛がさらに念仏寺に隠した。
 
色部長門君追念碑
昭和七年(1932)、色部長門の終焉の地に徳富蘇峰撰文の追念碑が建てられた。
 
昭和七年(1932)なので、色部長門を新潟町民が頼りにしたとか、慕ったは、後世に創作された話だろう。
 
河井継之助を顕彰する石碑
悠久山公園に立つ石碑は明治23年に長岡城跡に建立されたもの。
大正7年、悠久山公園の整備に伴い当地に移設されています。