一ノ瀬 要人の評価と人気が殆ど上がらない原因は、

戊辰戦争150年』展 日帰りバスツアーのお知らせ

2018年06月10日

 「新潟交通くれよん万代」と「新潟県立歴史博物館」が初のコラボ!当館の夏季企画展「戊辰戦争150年」をご覧いただい上で、長岡市小千谷市にある関連史跡や資料館等をバスで巡ります。
 なんと!7月15日(日)はFM-PORTナビゲーターの遠藤麻理さんと行くバスツアーに!!

俺も行きました(大和田爆笑)
慈眼寺の歴史の案内板に「小千谷談判を妨害する目的で會津軍が片貝村に進軍だの、偽造した五間梯子の旗指物を遺棄しただの書いて有りました。
『河井 繼之助 傳』で松蔵が風説だと証言して居ます。
會津軍は謀略を行って居ません。

五間梯子

 

連日身震いしそうな寒さです。風邪を引かないよう皆さん気を付けてくださいね。

 

さて、タイトルにある「五間梯子(ごけんばしご)」とは長岡藩の藩旗です。

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(当館一階にある五間梯子の旗/右下は牧野家家紋「三ツ柏」)

 

五間梯子がなぜ長岡藩の藩旗なのか?

それは・・・

 

時は戦国時代、敵に追われていた牧野の殿様は、領民の家の納屋に匿ってもらいました。

そして領民は機転を利かせ、まるで何事も無かったかのように梯子を納屋の扉に立てかけておきました。

敵の追手はこれを見て誰もいないのだろうと見事騙され、殿様は無事逃れきったのです。

領民は殿様を差し出せば褒美がもらえた筈なのに、そうはしませんでした。

殿様はこのことを忘れず、今まで以上に領民を大切にしようと決意し、この五間梯子を藩旗にしました。

 

・・・ということで、以上が五間梯子が長岡藩の藩旗になった由来だと伝えられています。

 

ちなみに、長岡駅の現在の駅舎はこの五間梯子をもとにデザインされています。

長岡にお立ち寄りの方も地元の方も、ぜひ長岡駅舎に注目してみてくださいね!


五段梯子が正解でしょう。 1間は約1.82 mに換算されるのが一般的です。 9.1mの梯子を納谷の戸に掛けるのは、長すぎて不可能 五段梯子が正解でしょう。 牛久保に牧野氏が居た時の逸話です。


2009年01月22日 会津藩家老で唯一の戦死者 一ノ瀬要人 一之瀬要人は天保二年、会津藩家老(千三百石取り)一之瀬要人隆鎮の長男として生まれる。妻は同じく家老職の西郷頼母の妹・幾与子。藩主・松平容保京都守護職を拝命した時に番頭として随行し、蛤御門の戦いで奮戦した。元治元年、天狗党の乱が起こった時に隊を率いて出兵したが天狗党が越前加賀で投降した為に一之瀬は現地に入らずに終わってしまった。そのために一之瀬の部下には藩からの手当てが出なかった(現地入りした藩士には手当てが支給された)。一之瀬は部下の為に藩に再三手当てを出してくれるように交渉するが聞き入れてもらえず、ついに辞職を願い出る。慶応二年、父・要人隆鎮が他界したのちに「要人」を襲名して若年寄となり千五百石を賜る。戊辰戦争が始まった慶応四年、家老職に就いて越後口総督となって桑名藩の立見鑑三郎や長岡藩家老の河井継之助とともに北越戦線を転戦した。長岡城攻防戦では足に被弾して重傷を負って自害を覚悟した河井を秋月悌次郎と説得して会津藩領まで退避させた。(結局、河井は傷が悪化して死亡した。)その後、戦場が会津若松城外に移り、一之瀬隊は唯一城と城外との補給路として確保されていた城南方面の守りを固める為に塩川周辺に布陣した。中荒井周辺にいた萱野権兵衛率いる隊とともに一之瀬隊は一ノ堰に移動したが、ここで新政府軍と遭遇して戦闘となり会津藩軍の攻撃が素早く優位に戦った。新政府軍は劣勢を挽回しようと増援部隊を送り込んだが犠牲者が多くなりついに引き上げた。双方に多くの戦死者を出した徳久村の戦いに勝利した一之瀬隊では総督の一之瀬要人が自ら陣頭に立ち銃を撃って奮戦するが激戦の中被弾し重傷を負う。また、隊長の西郷刑部、大竹主計、原早太ら主要幹部が戦死すると言う大きな打撃を受けた。一之瀬要人は桑原の病院で治療を受けるが藩主・松平容保から降伏開城の親書を受け取った翌日に息を引き取ったと言う。享年三十八歳・・北越戦争でともに戦った衝蜂隊の隊長・今井信朗や米沢藩の参謀・甘粕備後らからは「堕弱」と酷評されたが生まれた時から千三百石取り家老職の家柄の坊ちゃんであった一之瀬要人としては上出来の戦いぶりだったと思う。


今井信郎
証言について 坂本龍馬暗殺事件に関し、明治3年の供述では自分は直接手を下していないと主張した今井だったが、事件から30年以上たった明治33年(1900年)、結城礼一郎という人物の求めに応じて事件についての聞き書きが行われ、『甲斐新聞』や雑誌『近畿評論』にてその内容が掲載された。その中で今井は「渡辺、桂、自分ともう一人で殺害した」と供述を翻す証言をした。これが元土佐藩士の谷干城に知られ、谷は売名行為と罵って反論した。 明治42年(1909年)2月、今井は『大坂時事通信』にて再度インタビューに答え、今度は「佐々木、自分、渡辺で実行した」と話した。 これらの矛盾点については、今井存命当時に生存していた実行犯を庇うために嘘の証言をしていたのではないかとされる。それを裏付けるかのようにインタビュー中「もう一人」というのが誰かと問われ、「まだ生きている人で、申し上げることは出来ない」と答えている。 これに関連し、大正4年(1915年)、渡辺篤なる人物が死去する直前に「自分が坂本龍馬を殺害した」と身内に語った事が『大坂朝日新聞』で報道された。この渡辺は今井が刺客の一人と言った渡辺吉太郎とは別人だが、慶応3年当時に京都見廻組に所属していたことが確認されている。この人物が「もう一人」ではないかとされているが真相は不明。 刺客の人数が明治3年の供述と比べ、後年の証言で減っていることについては、今井が刺客と名指しした人物は、鳥羽伏見の戦いで今井以外全員戦死していることから、自分と生き残りの刺客を守るため戦死者をダミーとして利用したのではないかといわれる。 なお今井家の口伝として、西郷隆盛が今井の助命嘆願をしたというものが巷間伝わるが、全く裏付けや証拠の無い伝聞推定に過ぎない。


甘粕継成

慶応4年(1868年)1月から始まった戊辰戦争では、軍務参謀に任じられて新政府軍と戦い[1]北越戦争では米沢軍参謀(総督は当初は色部久長、後に千坂高雅に交替)と奥羽越列藩同盟軍参謀(総督は千坂高雅)を任された。 この時の甘糟の日記[2]には米沢藩が越後出兵に至った経緯[3] 、北越戦線での奥羽越同盟軍内での米沢藩の立場[4]、長岡藩・河井継之助会津藩佐川官兵衛ら同盟軍重役との軍議及び日々の戦況が克明に記載されている。  越後長岡城奪還作戦のために兵員増員を藩に要請して戦ったが、敗れた。その後、米沢藩が新政府に降伏すると謹慎を命じられた。 越後長岡城奪還作戦のために兵員増員を藩に要請して戦ったが、敗れた。その後、米沢藩が新政府に降伏すると謹慎を命じられた。

 

明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄土佐藩毛利恭助宛に書状を送り、新政府出仕への道が開いた。

明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、

要するに甘粕継成は犯罪者


一ノ瀬 要人の評価と人気が殆ど上がらない原因は、
今井信郎、甘粕継成、慈眼寺、司馬遼太郎らの嘘のせいである。
其れに気付かない現代人(大和田爆笑)