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https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/201705210000/
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/20100502.htm
>5月1日には「草生津御固場にて、御新調の機関砲を見る、多大砲二門にて、値一万二千金の旨」(「戊辰戦争とガトリング砲」より『鈴木総之丞の日記』)
>とガトリング砲の射撃演習をやった節があり、こうした新型重火器の演習などを密偵がもし探っていたならば、長岡藩に抗戦の意志があると報告されてもやむを得ないと思います。
http://tsuginosuke.net/?p=1264
【稲川通信19】母 貞の述懐
母の貞は明治二十二年三月二十八日、八十五歳で没している。継之助が没してから二十二年近くも生きたことになる。
貞は勝気ながまん強い雪国の女性だった。生来、経才があったというが、その才能は子に引き継がれたのだろう。亡くなる半年前、郷土史家で新聞人の広井一が、貞に会っている。暗い一室に、凜として据っていたという。
その貞が一番つらい思いを語っている。それは戦時中、潜伏先の濁沢村阿弥陀寺で襲われて捕えられたことだった。住職の神田月泉の配慮も空しく、高田に護送されて半年間の禁固に会った。「唐丸籠に乗せられた思いは生涯忘れません」と語っている。妻のすがはその際、髪をおろしている。
その貞のところに、毎年、継之助の命日近づくと訪問する老人がいた。古志郡加津保村の元庄屋鈴木総之丞である。号を訥叟という。藩政時代、継之助に北組の割元を命ぜられ、郡政改革に一役を買った人物だ。当時、栖吉村の紛擾に困り果てた継之助は、あるとき仮病を使い、総之丞を病床に呼びよせた。そして息もたえだえに栖吉村の庄屋職就任を懇望する。総之丞はそれほどまで評価してくれると感激して、涙ながらに受け入れると「がばっと」継之助が起きて、喜んだというのである。その際、継之助は一番大切にしていた師の山田方谷の書を総之丞に渡している。継之助が戦争中、敗走の道を追求し、直接「北組割元職」の返上を申し出ている。律義な性格だった。
その総之丞に向って、母の貞が、
「世間様は、継之助がやったことを悪し様に申しまするが、本当にそうなのでしょうか」
と長岡弁でたずねたという。その際、総之丞は訥弁で、
「そうは申しても、いつかは継之助様の真意がわかるときがきましょう」
と答えたという。そして二人は遠く東の方を眺めて、無言の刻をすごしたとある。
(稲川明雄)
>藩政時代、継之助に北組の割元を命ぜられ、郡政改革に一役を買った人物だ。
北組の割元が草生津御固場にて、御新調の機関砲を見る事など、有り得ません。
増してや、軍事機密である、「値一万二千金の旨」なんて知った時点で斬首です。
『鈴木総之丞の日記』は後年に捏造された物ですね。
https://blogs.yahoo.co.jp/quasar2012q/17594014.html?__ysp=44OV44Kh44OW44Or44OW44Op44Oz44OI
ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)は、河井 繼之助に武器(兵器)を一つも売って居ないのです。 他 重要
ついでに書きますが、
我自身に尋ねたところ、
板倉勝静を裏切り、戦わずして薩長に降参した山田方谷を河井 繼之助は馬鹿にして居たそうです。
山田方谷が板倉勝静を裏切り、戦わずして薩長に降参した後も、河井 繼之助が山田方谷を尊敬して居た。 と言った類の話は、後世に捏造されたものだそうです。
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https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/201510190000/
我自身に尋ねたところ、
河井 繼之助はミニエー銃を購入して居ないそうです。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/naga02.htm
シリーズ戊辰戦争1 河井継之助 小藩生き残りの誤算
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89%E2%91%A0+%E6%B2%B3%E4%BA%95%E7%B6%99%E4%B9%8B%E5%8A%A9+%E5%B0%8F%E8%97%A9%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8A%E3%81%AE%E8%AA%A4%E7%AE%97+
10分20秒辺りを再生
この写真は戊辰戦争の当時では無くて、第二次長州征伐の当時に大坂城で撮影されたものです。
長岡軍は慶應二年の時点で、エンフィールド銃で武装して居たのです。
蛤御門の変でエンフィールド銃で武装した薩摩軍が長州軍を撃退した。
第二次長州征伐でエンフィールド銃で武装した長州軍が幕府軍を撃退した。
坂本龍馬が長州に輸送した薩摩名義のミニエー銃とは、イギリス製エンフィールド銃
http://yamadahoukoku.com/kawai/rireki/k2.htm
兵制改革
城西の中島に操練場を造成し、兵学所もそこへ移した。射的場は百間もある大きさで、藩兵をフランス兵制の三個大隊に組織して訓練を行った。兵制改革にあたっては、幕府の蕃所調所教授となった鵜殿団次郎の意見を採ったという。なお、鵜殿の実弟白峰駿馬は土佐の海援隊に入つている。
さらに継之助は藩兵の西洋式装備を積極的に推進した。まず各戸に一挺ずつミニエール銃を配備した。兵器は継之助と親交のあった外国人エドワード・スネルとファーブル・ブラントから購入したと云われる。
長岡藩の兵制改革は非常に短時間の内に行われた、これは継之助の手腕によるものであるが、ファーブル・ブラントから購入した書籍からの知識によるところが多い。慶応三年九月の受領証に歩兵操練書・地理書・施條銃論などを八両一朱と三百文で購入していることがわかる。元掛川藩士の福島住弍は横浜のファーブル・ブラントの館で、継之助がフランスの兵制・兵器を一所懸命に研究している姿を見たと、後年語っている。
上記の文章を論破して差し上げましょう。
我自身に尋ねたところ、
鵜殿団次郎が出来たのは、オランダ語の日常会話と翻訳、英語の翻訳
鵜殿団次郎はフランス語の日常会話と翻訳は出来なかった。
幕府のフランス軍事顧問団に長岡の牧野家は家臣を派遣せずに、一人たりとも学ばせなかった。
河井 繼之助は漢文しか出来なかった。
>慶応三年九月の受領証に歩兵操練書・地理書・施條銃論などを八両一朱と三百文で購入していることがわかる。
英國文典と新版素讀書の存在を意図的に書かないのですか?
河井 繼之助宛の受領書に英國文典と新版素讀書が記載されて居り、佛蘭西國文典が記載されて居らず、
依って、長岡軍の模範はイギリス陸軍やアメリカ陸軍なのです。
河井 繼之助が横濱のイギリス人の武器商人から、エンフィールド銃・スナイドル銃とアームストロング砲を購入した。
河井 繼之助宛の受領書は残って居るが、河井 繼之助の部下が買い付けただけで、
河井 繼之助とファブルブラントは、面識が無かった。
河井 繼之助と福島住弍は、面識が無かった。
ファブルブラントは商人を装ったスイスの諜報員
ファブルブラントの手先が福島住弍
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11121521496
戊辰北越戦争で長岡軍のガトリング砲は、一門しか登場しません。
ファブルブラントは何故、河井 繼之助にガトリング砲を二門、大金で売ったとデマを流したのか?
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/naga001.htm
長岡軍の保有した大砲は31門
元込砲 二とは、アームストロング砲が二門
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55288511.html
>長岡藩の長谷川隊報告には「奇環砲」(河井継之助伝、p395)と書かれている
ガトリング砲も元込めですが、
元込砲 二門と奇環砲(ガトリング砲)が別物なのは、史料で明らかです。
ファブルブラントは大村益次郎と親交が有った。
大村益次郎がアームストロング砲で上野の彰義隊を半日で壊滅させた。という法螺話を色褪せない様に、
戊辰北越戦争で長岡軍がアームストロング砲で、榴散弾を発射して奇兵隊ら西軍の頭上で爆発させる戦術を用いて、多大な損害を与えた事実を隠す為に、
元込砲 二門をガトリング砲 二門だと思わせたのです。
ファブルブラントは河井 繼之助がガトリング砲 二門を大金を叩いて買った愚か者だと思わせたのです。
河井 繼之助が西軍兵を射殺したガトリング砲は、1868年型だそうです。
只見町のが正解で、長岡市のが間違いだそうです。
横濱のアメリカ人の商人(フリーメーソンのメンバー)が河井 繼之助にガトリング砲と弾丸をプレゼントしたそうです。
河井 繼之助が所有していたガトリング砲は一門だったそうです。
河井 繼之助はフリーメーソンの手先では無いですよ。
賢い河井 繼之助はガトリング砲の弾丸の少なさにアメリカ人の商人(フリーメーソンのメンバー)の意図を察しました。
河井 繼之助は自らガトリング砲を撃ち、西軍兵を斃しました。
河井 繼之助は肩先を撃ち抜かれる迄、ガトリング砲を撃ち続けた。
河井 繼之助の実戦リポート付きでガトリング砲は新潟港から、
横濱のアメリカ人の商人(フリーメーソンのメンバー)にギフトされたそうです。
河井 継之助のビジョンとは
https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202010090001/
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【ゆっくり解説】歴史を遡る!江戸時代の人達の食事について
https://www.youtube.com/watch?v=PIyzWR5vFA0
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