河井 繼之助

保科正之が私心で米澤の上杉家を取り潰しから救ったのが間違いなのです。
領地を15万石に減らされた米澤の上杉家は幕末まで残っていました。
米澤の上杉家は旧領である越後を狙っていました。
會津(奥州)と荘内(羽州)を救う奥羽列藩同盟を米澤は仙臺と共に結成して、主導しました。
戊辰北越戰爭に米澤は主力を送りました。
米澤の北越戰線の總督・千坂高雅が北越戰線の奥羽列藩同盟總督に成りました。
米澤の上杉家と新発田の溝口家は仲が悪かった。
米澤の上杉家の圧力に業を煮やした新発田の溝口家は、
奥羽列藩同盟を裏切りました。
溝口家は領内の海岸に西軍を手引きして上陸させました。
西軍が新潟港を占拠しました。
長岡城を奪還した河井繼之助は西軍の反撃に遭い銃創を負いました。
そして西軍が長岡城を奪いました。
新発田の溝口家が奥羽列藩同盟を裏切り西軍が新潟港を占拠しているので、
河井繼之助は荘内領で再起する事が叶わずに、
會津領に入るしかなかったのです。
會津領で河井繼之助は死亡しました。

5次元の存在に尋ねたところ、

慶應四年に米澤の上杉家が存在していなければ、
會津・荘内・長岡は戰爭で西軍に負けていなかったそうです。
河井繼之助と共和党に密約が存在したそうです。
翌年の雪解けの季節の頃に高田をアメリカが海軍と海兵隊で攻撃して、
高田を占拠して西軍と會津・荘内・長岡を調停していた筈だそうです。
河井繼之助が死亡しても、共和党との密約は機能して、
會津・長岡より北はアメリカの属国と成ります。
アメリカ海軍と海兵隊は高田に八年程占拠していた筈だそうです。
會津・荘内・長岡にアメリカ軍基地は建設されなかった筈だそうです。
慶應四年に米澤の上杉家が存在していなければ、
日本と會津・荘内・長岡はアメリカとの太平洋戰爭を経験せずに済んでいたのです。
廣島と長崎に原子爆弾は投下されずに済んだのです。