下衆の勘繰り

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2020.01.27
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亀井俊介は司馬遼太郎『峠』の文庫版解説で、司馬が河井継之助を英雄として描くために不都合な史実を隠していることを、短編「英雄児」との比較から指摘して、『峠』で描かれているのは歴史というより司馬のロマンの投影であると論じている。司馬遼太郎に必要な解説はこういうものだろう。 午後5:36 · 2020年1月19日·Twitter Web Client

10/24/15--01:51: 『英雄児』の嘘
 
>米式連射砲がそれを考えさせ、仏式後装砲が自信をつけた。
元込砲 二門は仏式とは記されて居ませんよ。
大山柏の言う通りで、元込砲 二門はアームストロング砲です。
 
>この今町の戦闘では、継之助は三方から包囲砲撃をあびせたため町家はすべて自藩の長岡軍の砲弾で粉砕され焼かれ、路傍には頭蓋砕けて脳漿(のうしょう)の流れている男女、腹壁をえぐられて臓腑が出ている者、手足、首のない市民の死体が累々(るいるい)ところがり、新式砲の威力がいかにすさまじいかが、如実(にょじつ)にわかった。
 
司馬遼太郎の嘘です。
『河井 繼之助 傳』や『河井継之助の生涯』を読めば分かりますが、
洪水の後に行われた戦闘という事も有って、
砲兵部隊は新発田領の飛び地の今町に到達できず、
河井 繼之助と佐川官兵衛が決死隊を編成して率いて、
今町を放火しました。
 
今町の民が河井 繼之助を恨んで居るとか、憎悪して居るなんて、
聞いた事も、読んだ事も有りません。
長岡城を奪還する迄の間、新発田領の飛び地の今町の民を手厚く庇護したのでしょう。
 
>妻おすがは、舅(しゅうと)たちとともに落城後、長岡の南約二里の古志郡村松村に難を避けていたが、のちゆるされ、明治二年、旧観をとどめぬまでに焼けた長岡の城下にもどった。 そのとき継之助の遺骨を会津若松建福寺から収めて長岡へ持ち帰り、菩提寺の栄涼寺に改葬した。 戒名は忠良院殿賢道義了居士。
 この墓碑が出来たとき、墓石に鞭を加えにくる者が絶えなかった。 多くは、戦火で死んだ者の遺族だという。
 おすがは居たたまれずに、縁者を頼って札幌に移住し、明治二十七年、そこで死んでいる。
 栄涼寺の継之助の墓碑はその後、何者かの手で打ちくだかれた。 無隠は晩年までしばしば栄涼寺を訪ね、墓碑が砕かれているのを見つけては修理し、
 「あの男の罪ではない。 あの男にしては藩が小さすぎたのだ」
 といっていたという。
 
おすがを河井平吉は何一つ、助けて居ません。
河井平吉の嘘