史料を捏造した只見人

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2020.08.07
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万策尽きた末に… 
 
慶応4年8月6日(1868年9月21日)は会津藩士丹羽族(やから)の命日。
慶応4年8月初旬、越後戦線の状況悪化により長岡藩士やその家族、領民などが続々と会津に避難してくると、野尻代官だった族は急遽只見に常駐して兵糧総督を兼任し、避難民の糧食調達に奔走します。
午後9:54 · 2020年8月6日·Twitter Web App
https://twitter.com/shikishinobu/status/1291356923682369541
會津の松平家の場合は、家老に成った者しか総督に就任できませんでした。
佐川官兵衛の例で分かる筈ですが。

8月11日には、西会津の野沢において松平容保より家老就任を命じられ1000石で家老に昇進した。

わずか300石の家から家老職1000石まで出世したのだ。

8月21日には新政府軍に母成峠を突破され、8月22日、松平容保出陣の際には佐川官兵衛が先乗し、23日佐川官兵衛は強清水まで出陣するも、佐川官兵衛、秋月梯次郎らは院内村で遊軍隊・敢死隊・奇勝隊・水戸諸生隊と合流し、建福寺から新橋を経て三ノ丸へ入城する。

その同日8月23日には会津若松城下への侵入を許す。

敵の砲撃が増す中、会津鶴ヶ城籠城戦においては、薩長の軍が寝ている早朝に、敵陣を攻撃するべく作戦が立てられ、佐川官兵衛は藩主・松平容保より精鋭部隊1000を率いて、城外出撃の総督(指揮官)を命じられる。<
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