所謂「會津の悲劇」は起きない事に成る。

46 秒前
幕府水戸間の調停と幕政参画
万延元年(1860年)、桜田門外の変が起こる。老中久世広周安藤信正尾張紀伊に水戸家問罪の兵を出させようとしたが、容保はこれに反対し、徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との調停に努めた。これには家茂も容保の尽力に感謝した。これに続き容保は、問題となっていた水戸家への直接の密勅の返還問題に着手する。家臣を水戸に派遣し武田耕雲斎・原市之進らの説得にあたらせる一方、容保は委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせる[5]。

 

これが白羽の矢が立つ、京都守護職の就任の布石と成ったのです。
松平容保には水戸・徳川家の血が入って居ますからね。
これが所謂「會津の悲劇」の序曲

 

中川宮と薩摩の企みを長州に教えて、
長州 対 薩摩の構図に持って行くべきだった。
所謂「會津の悲劇」は起きない事に成る。

 

蛤御門の戦い
京の都の火災は長州軍の放火とも、會津軍が焼玉を撃ち込んだから、の二説が有りますが、
我に俺が尋ねたところ、
會津軍が焼玉を撃ち込んだから、だそうです。
蛤御門の戦いの直後に松平容保切腹して、
京都守護職を薩摩が就任すれば、
所謂「會津の悲劇」を避ける事が出来た。