河井継之助開戦決意の地記念碑

2012.07.19
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慶応4年5月3日(今の暦で6月22日)。

長岡藩の中立を訴えた小千谷談判が決裂し、長岡藩本陣である光福寺に戻ろうとしていた軍事総督の河井継之助は、途中、前島村に駐屯していた長岡藩士三島億二郎(当時の名は川島億次郎)のところへ寄りました。

そこで河井継之助は、小千谷談判が失敗に終わったこと、戦争もやむを得ないことを話しました。

すると三島億二郎は、「日頃から、戦争はしてはならんと言っておったではないか。」と言いました。

河井継之助は、「戦争はしたくない。しかし、我が藩の面目を保つためには仕方がない。わしの首に3万両を添えて新政府軍に持っていけば、戦争は避けられるかもしれん。」と言うと、三島億二郎も思わず「・・・。今は是非なし。わしも、おぬしと生死を共にせん。」と言ってしまいました。

これで、長岡藩の開戦が決定的になりました。

http://blog.livedoor.jp/hokutatu/archives/6724280.html

上記のブログの文章を創造主と共に歩む5次元の存在に尋ねたところ、

三島億二郎の嘘です。

其れが事実ならば、川島億次郎は軍事総督補佐に任命される筈です。

三島億二郎が言っている事は、浪花節に過ぎない。

モンロー主義の影響を受けた獨立特行を河井繼之助が主張した。

獨立特行は武装中立では無いのです。

>三島億二郎はこの時44歳。河井継之助より2才年上で、温厚な性格のため、藩士からもしたわれていました。

其れが事実ならば、三島億二郎は殿様に成っている筈です。

>そのため、彼を抗戦派にすることで、藩士の信頼を得ようと河井継之助は考えていたといわれています。

掌を返した三島億二郎を信頼するのは、白痴です。

>真剣な顔で「わしの首に3万両をそえて」なんて言われたから、思わず「今は是非なし。」なんて言ってしまったんでしょうね。

三島億二郎が創作した浪花節に過ぎない。

>その後、三島億二郎は長岡藩軍事掛として、戊辰戦争を戦い抜くことになります。

軍事総督補佐に任命されて居ないので、三島億二郎は嘘吐きだと確定です。