>菜の花忌シンポジウム土方歳三と河井継之助-『燃えよ剣』『峠』【まとめ②】

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2020.04.14
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菜の花忌シンポジウム土方歳三と河井継之助-『燃えよ剣』『峠』【まとめ②】

>近藤亡き後も土方は戦いを続け、各地を転戦。

しかし、函館戦争で戦死しました。享年35。

そのぶれない生きざまは今もなお人々を魅了しています。<

いや、ぶれ捲くって居ます。
将軍の警固の任務が終われば、御役御免の約束でした。
鳥羽・伏見の戦いの後に江戸に逃げ帰って、名目上は幕臣
日光で戦って、玉砕するのがベストだった。
斎藤一は會津が壬生浪士組に送り込んだ密偵だから、
あの行動で良い。

杉本鉞子という長岡出身の娘が大正時代にアメリカにお嫁に行くんですけど、英文で武士の娘という本を出版してベストセラーになります。

杉本鉞子からフローレンスが聞き取って執筆したのが、『武士の娘』
真相はこんなものです(大和田爆笑)

調べてみると河井継之助と稲垣平助はライバルで、継之助のほうがどんどん出世して平助はダメになっていくんですけど、そういった武士の最後の社会の中での悲哀だとかを感じました。

河井継之助と稲垣平助は年齢差が、かなり開いて居ます。
『峠』を執筆した司馬遼太郎は、稲垣平助の生年月日を知らなかったのでしょう。
『峠』を読んだ我は、稲垣平助の方が年長者だと思い込んでしまいました。
史実では河井 繼之助の方が、九歳も年長者です。

つまり武士は戦って勝つための集団なのに草履取りとか荷物運びだとかを沢山雇っていてそいつらに銃を持たせるという考えはないんですよ。<

其れは違うな。
北越戦争で三間正弘は背後から敵兵に斬られるところを、
敵兵を中間が斬り殺したので、命拾いした。

河井継之助武装中立が彼の中では正義になる論理だっていうのはそれなりにわかるんですよ。

牧野家(長岡藩の藩主)は徳川譜代の大名で、薩長は徳川家をだましてやって来たと、ものすごい立派な軍備を河井は頑張って作りました。

ヨーロッパの様子を見て武装中立があります。(長岡藩は武装中立をします。)でも、僕が、河井の横にいたら大いに止めたと思うんですね。

一方では、革命を起こしたばかりの天皇を担いでる薩長にも彼らなりの思いこんだ正義がある。

勝ちに乗じている人たちに対して、立派な装備を持って背中の後ろで武装中立を認めるはずがない。

 

しかも新潟港を制する場所にあるので、こんな要所で武装中立なんて認められるはずがないって、僕なら説得したと思うんですね。<

武装中立は歴史の改竄です。
河井 繼之助はモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張したのです。

ヨーロッパの様子を見て武装中立があります。(長岡藩は武装中立をします。)でも、僕が、河井の横にいたら大いに止めたと思うんですね。

当時のヨーロッパで本当の意味での武装中立を貫いた国は無かった。

記事転載:イルミナティという人類支配システムを所有する 黒い貴族とは?

黒い貴族の一大拠点 永久中立国スイス

 

 

 

スイスが永世中立でいられる理由は? より引用

 

http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-1735.html#end

 

 

 

 

「石油の戦争とパレスチナの闇」④(最終回) ジョン・コールマン

 

 

 

前回に続く。以下、一部引用する。

 

 

*スイスは王族たちの天国で、彼らの共通の所有地だ。スイスの永世中立は、ルツェルンに神学校をもつイエズス会の力によって保証された。1815年、イエズス会とその盟友であるフリーメーソンに属する王たちが、ウィーンで会議を開いた。その年の3月20日および29日、その会議でスイスの中立を永久に保証する二つの条約が締結された。

これによって、彼らが何度反目し合い、何度戦争が起こって人々が戦わざるをえなくなっても、スイスにある彼らの財産は略奪を免れるというわけだ。スイスがつねに、周りで起こっている戦争の枠外にいられたのはそのためだ。どこの国もスイスを侵害しないのは、スイスの軍隊が恐れられていたわけではなく、ヨーロッパの王族たちとそのほかの黒い貴族が介入した1815年の条約のためである。そしてその条約が、今日スイスが存続している理由でもある。この国は、ヨーロッパの王族とそのほかの黒い貴族が不当に得ている財産を守っているのだ。


一方では、革命を起こしたばかりの天皇を担いでる薩長にも彼らなりの思いこんだ正義がある。

当時の日本には、天皇は不在でした。
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位した。