早乙女貢『會津士魂』に登場した数え年53歳で剣豪の二本松藩士の実話

アセンション詐欺に遭いましたか?:早乙女貢『會津士魂』に登場した数え年53歳で剣豪の二本松藩士の実話 (livedoor.blog)

2021年08月11日

 

早乙女貢『會津士魂』に登場した数え年53歳で剣豪の二本松藩士の実話

1 分前
早乙女貢『會津士魂』に登場した数え年53歳で剣豪の二本松藩士の実話
商家の奥方が出産の為に実家に帰り出産したのか、
戦争が迫って、嬰児と下男を伴って逃げたが奥方は力尽きた。
敵の砲弾で下男は嬰児を抱いたまま即死したが、嬰児は無傷だった。
剣豪の二本松藩士が通り掛かり、嬰児を左腕に抱いて、抜刀状態の刀を持って歩いた。
脇道から西軍兵たちが襲って来たが、西軍兵を二名斬り倒して走り去った。
剣豪の二本松藩士は寺の住職に事情を説明して、嬰児を保護して貰った。
商家の旦那が奥方を探しに来て、寺の住職に「其の嬰児は私の倅に違いない」
嬰児は成人して横濱で貿易の仕事で成功した。
横濱から帰郷する度に、命の恩人の老人と成った剣豪に舶来の珍しい品物を贈り、喜ばせた。

早乙女貢『會津士魂』に登場した数え年53歳で剣豪の二本松藩士の氏名を失念した。
2000年代前半に岩手県在住の男性の幕末・戊辰戦争系ホームページの掲示板で質問したら、
数え年53歳で剣豪の二本松藩士の某は実在した人物だと答えてくれました。



諸橋嘉久
諸橋嘉久
45 分前
糠沢・上之内の戦い
7月27日早朝、藩境糠沢上之内(現・福島県白沢村)の警備をしていた二本松藩の樽井弥五左衛門(三番組番頭)隊が三春に入城していた新政府軍から奇襲を受けました。
暫時応戦しますが、やがて壊滅状態に陥って退却しています。
赤鞘を佩して敵中に斬り込んだ「赤鞘の二壮士」(青山泰四郎と和田悦蔵)、最後まで射撃を続けて戦死した少年兵「上之内の二銃士」(岩本清次郎中村久次郎)などの逸話がのこされています。
女性1名を含め、死者61名

供中口・高田口方面
最初に戦端が開かれたのは城東阿武隈川岸の供中口(守備:樽井弥五左衛門隊二個小隊)、高田口(守備:高根三右衛門隊二個小隊)でした。
小浜を発した新政府軍(隊長:渡辺清左衛門)は午前6時ごろ、供中口と高田口で砲撃・徒渉を開始。暫時の戦闘の末、樽井隊が退却。これによって高田口の高根隊も背後を突かれて退却しました。
なお、供中口には三浦権太夫に率いられた農兵隊も守備に就いていましたが、勤王家の三浦が早々に農兵を解散させ、自身は自尽戦死を遂げたため、戦闘には殆ど関与していなかったものと考えられます。
供中口を破った新政府軍はその後、供中口後方愛宕山に控えていた朝河八太夫(砲術師範)の砲兵隊と激突します。朝河隊は高所からの的確な射撃で新政府軍を苦しめますが、やがて朝河が負傷したこともあり、引き揚げています。

大壇口方面
本宮から進発した新政府軍(隊長:板垣退助)は街道を北上し、城南大壇口に迫りました。
まず、大壇口前方の尼子台を守備していた小川平助(軍師)の一個小隊が激戦の末に破られます。
大壇口の守備は丹羽右近隊三個小隊で、その中には西洋流砲術師範木村銃太郎に率いられた同人の門下生を中心とする少年兵25名、いわゆる「二本松少年隊」も含まれていました。
大壇口の戦いは後に野津道貫(当時薩摩軍に所属して参戦していました)に「戊辰戦争中第一の激戦」と評されるほどの戦いとなりましたが、他関門の敗北によって敵が城下に入り込み、これを受けて丹羽隊は退却。少年兵たちも木村を失い、引き揚げました。
また、大壇口では青山助之丞山岡栄治の二名が敵中に斬り込み、およそ9名を斬って戦死を遂げ「大壇口の二勇士」として知られています。

二本松藩の軍師として阿武隈川の最終防衛戦の配置と指揮を執った小川平助も戦死後に新政府兵に腹を捌かれ争うように肝を喰われたという話がある。

小川平助が陣取った尼子平(台)を奪取したのは薩摩藩の部隊なので、小川平助を討ち取ってその肝を喰ったのも薩摩兵たちだと考えられている。